うちの娘、年賀状の消しゴム版画を作ってる。
上手にできた〜って自画自賛(誰かに似てる、その行動)。
絵はネットで探したものを、写したと言ってる。 ちょっと引っかかった。
元ネタはオリジナルじゃないんだ、と。 しかし、しばらくなんとなく考えてると、私の年賀状なんてパクリとは言わないかもしれないけど、本歌とり、と言ったら聞こえがいいかもしれないけど、そんなの多いな。クレタ島のつぼにある牛の絵柄とか、クリュニー美術館の一角獣と貴婦人のタピスリーからは「犬」も「うさぎ」もいただいたな〜と思い出した。
彼女はパソコン見ながら、鉛筆で下書きした、って言っていた。
アナログが生きていてよろしい。 というか、理解可能な範囲に子供が居ることが安心なのもある。
でも鉛筆でなぞる、ってのは大事だと思う。「写す」意義、あり。
なんでもまねから始まるんですね。鉛筆もいつのまにかあまり使わなくなります。小学校の頃の年賀状は鉛筆の子が多かった記憶が。ノートも鉛筆で書かなくなったのはいつだろう。ふしぎー。そういえば最近「東大合格生のノートはかならず美しい」という本が話題です。
その本のことはなんか聞いたな。でもノートが美しい人は東大に入れるじゃあないんだよね。
それに東大に入れるのが必ず「よきこと」でもないからな。
でも「作る人」としては、「実際に手を動かすことを特別に大事で、ごく自然なことと思うよ。
外部からいろいろなものを取り入れるときに、食べものだったらいろいろ味があったり、においがあったり、感触があったり、まさに味わう。パソコンからとか画像からとかだけだと、点滴やらサプリメント、みたいなものな感じがする。
そして、機械がいろいろ発達する以前は人間の手の技がものすごく発達した時代があったと思うけど、今はそれが衰えている。技能オリンピックのようなのはなくならないと思う。そいういうこまかな高度な手技を求めていくんじゃなくて、プリミティブなところから入って繊細なものにダイレクトにつなげるようなことが有ってもいいよ。(抽象的だ〜)
なんでもいいから、手を動かすことは大事だね。キーボードをうつのも技量だけど、鉛筆を動かす方が複雑だね。何言ってるんだろうね。