2022年7月 9日|zoom本読み|個別ページ| コメント(0)
以下の文は、noteに書いてるものをコピペしています。
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冒頭の写真:
自分のやってることの意味は、よくわかってません。
なんでこの文を書いてるのかも、例によって目的がはっきりしないです。
しかし、やったあとには、考えてはいます。
この「冒頭の写真」部分は、まあ、日記(ひとりごと的)っていうことですね。
そう理解しました(つまり、自分のウェブサイトに載せればいい、と思いました)。
本文である「本読み」も日課なんで、これも日記的ですけれど。
さて今日の写真ですが、自作の「手締めプレス」です。
手製本のプライベートレッスンしていて、これを使ったんですが、説明したいことがいっぱいあるなー、と思いました。
説明動画も作ってますが、長くていまいち。
もっと言いたいことを絞って動画作ろう、と思いました。
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7月9日(土)は以下を読みました。
福岡伸一 訳
早川書房
第6章 夢のような空想に ひたすら心を奪われ
☆
統計的にみても、星占いには、なんらその占断に有効性があるとは考えられない、という数値を示していました。
それはその通りでしょう。しかし人々は信じるのを止めない。
いくらドーキンスが科学的思考を用いて「論破」したとしても、そういうことは無くならないでしょう。
人間は、科学の産物ではないから、でしょうか?
(音読した人:山崎)
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文春文庫
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英泉も登場。
田舎家で畑をしながら、女の魅力が出始めた養女と暮らしています。
英泉も含めて、これまで登場の絵描同士や先輩後輩の雰囲気に、ふと、
以前こいでさんに読んでいただいた、
野見山暁治さんの文を思い出しました。
歴史の中の浮世絵絵師ではなく、そこで生きている絵描き仲間、という風情がなまなましくて面白いです。
笹がはびこる描写をリアルに感じました。
うちの実家は「竹」ですが、土の下にどれだけ|蔓延《はびこ》っているかわかりません。
急に何かの理由で、誰も居なくなって、放置されたら、
数年で竹藪の中に没してしまうかも、と感じるときがあります。
(音読した人:こいでさん)
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おうふう
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|人倫《じんりん》、|非人倫《ひじんりん》という、ことばの分類がとても興味深かったです。芭蕉以前から分類が決まっていて、芭蕉もこれについてはっきりした見解を作れなかったらしいことが書いてありました。
例:「ひとり」は人倫「ふたり」は非人倫に属します。
思い出したのは、ヨーロッパ言語などにある「女性型」「男性型」などの分類。わかるようでわからないので結局おぼえるしかない、というやつです。
こういう謎のゲームルールまで含みこんでるのが、伝統の芸能、という感じがあります。
|去《さ》り|嫌《きら》い とか |遠輪廻《とおりんね》などという禁則事項の言い回しがまた、いい響きです。
(音読した人:きよもとさん)
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岩波文庫
十五編 事物を疑いて取捨を断ずること
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ルーザ(宗教改革のルター)を日本に居た人物、浄土真宗の親鸞をヨーロッパに居た人物、というように取り替えて書いた「例」でした。
例を示せばわかりやすいはず、という著者の熱い思いを感じるのですが、ちょっとくどくて、かえってわかりにくく感じるのが、上のドーキンスを読んでる時と似た気分になりました。
昨今、ヨーロッパの歴史を改めて知るにつけ、その殺し合いの凄まじさをやっぱり思いますから、福沢諭吉もそういうとこを感じていたのだろうな、と思いました。
(どちらにしても「本で読んで、その歴史を知っている」というだけの話ではあるのですが。)
(音読した人:めいさん)
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岩波文庫、
三五 馬かりて(卯辰集)117~119ページ
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〈 有明の祭の上座かたくなし 北枝〉
の、かたくなし、とはどういうこと?
と、本読み終わってから、古語辞典を引きました。
岩波の古語辞典では「|癡《かたくな》し」という表記でした。
やまいだれに、|疑《うたが》う、が入った字です。
ネットで検索すると、この字の略字が「痴」。
その字なら知っています。
意味も、愚か、とか、みっともない、というものでした。
それがわかっても、この句もそのまえの句との繋がりもよくわかりません。
それでもあれこれ想像するのが楽しいです。
かたくな・し の項には、『栄花日陰』『源氏空蝉』『枕六三』などと文例が載っていて、
今の山崎の、いわゆる無人島に持ってく本は「古語辞典」かもな、と思いました。
(音読した人:山崎)
冒頭の写真:
都立工芸高校で、週一回、手工製本を教え始めたのは、コロナと同時の2020年から。
今週は、|折帖《おりじょう》(蛇腹折りの本)の、表紙を作りました。
2ミリ厚のボール紙を中身より少しだけ大きく切って、4辺に15ミリの折り返しのある紙に全面糊を塗って、くるむ、というだけのこと。
取り都合で、ボール紙とくるむ紙の目を逆にしたら、
紙の性質に思いを馳せてしまい、
ボール紙はどこの新聞紙の古紙から?
表の紙はどこの木のパルプから?
とか、
糊の元のコーンスターチはどこのトウモロコシ?
とか原料のことを思い、
原料は植物が多い。
もとの細胞の性質はどこまで残ってるのかな?
セルロースは細胞壁を作っていたよね、
デンプンって生体内ではどうしてるんだっけ、
などなど思いました。
以下は、zoomで週5日やっている本読みの、レヴュー(書き出し)です。
noteに書いています。
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5月25日(水)は以下を読みました。
リチャード・ドーキンス 著
福岡伸一 訳
早川書房
第2章 客間にさまよいいった場違いな人間
☆
科学には、こんなに「詩の元」があるというのに、
それが詩人たちに伝わらないもどかしさ。
科学者たちに囲まれた詩人の感じるこころぼそさと、
詩人たちの中に科学者がいるときに感じる場違いな感じは、
同じことの裏返し。
著者は、ウィリアム・ブレイクの自然への畏敬(ここは科学と同じ!)
に対しての心の向く方向をとても残念がっていました。
それを読みながら、
山崎は、
日本では、
それ(科学と宗教が対抗関係にある)はあまりないんじゃないかなと、
前に読んでいただいた、中村桂子先生の本の、まどみちお、宮沢賢治、を思い出していました。
(音読した人:山崎)
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福沢諭吉 著
岩波文庫
十一編 名分をもって偽君子を生ずるの論
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赤穂藩の義士四十七名の話から、
義に感じて行動する人の割合を算出して、
明治の今に7掛けして当てはめていました。
これをパーセントに直してみましたが、
そうすると人口に対して0.04%程度。
現在の1400万の都民のうち、義に感じて行動する人は、5600人と算出できました。
(音読した人:めいさん)
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伊藤 亜紗 著、光文社
第3章 運動 見えない人のからだのつかい方
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合気道の話になり、「気」の話もでてきました。
たしかに、触れているだけで、相手のことがわかってしまうのは、不思議です。
パラリンピックの選手の義肢は、それが自分の足であるかのように感じないとうまく使いこなせないそうです。
事故などで失われた肢を、あると感じる、幻肢という現象もあります。
山崎が製本作業でヘラなど使うとき、その先がどのような作業をしてるのかをあたりまえのように感じます。ヘラのさきまでがある種「指」のように感じている、ということです。
見えない人の感覚の話は、気づいてないものを見せてくれる力がありますね。
(音読した人:こいでさん)
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湯川秀樹 著
岩波新書
「東西遊記」
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越後の葡萄峠で滑落したり、なかなかハードな旅もありました。
また、エレキテルを自作して試して、竜巻のような現象を起こしている一節もあり、すごいな、と思いました。
湯川さんの、橘南谿への強い共感が溢れていました。
検索すると、
京都で死刑囚の人体解剖などもして、
一人を解剖することで多くの人が救われることになる、というような言葉も残しているみたいです(検索先がちょっとわからなくなりました、すみません)。すごいお医者さん。
(音読した人:きよもとさん)
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岩波文庫、松尾芭蕉
三二 有難や(曾良俳諧書留)108〜110ページ
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長い補注で、
『奥の細道』のたいへんだった月山への登山のところがありました。
このページには他にも補注が二つもあって、
物語など故事を踏まえて詠む連句のやりかたがよく感じられましたし、とたんにわかりやすくなります。
(音読した人:山崎)
2022年5月19日|いろいろ|個別ページ| コメント(0)
ここしばらく、このブログをほとんど、放置してしまっていました。
その間、何をしていたか、というと、アメーバブログ書いたり、今はnoteに書いています。
どうしてこんなことになったかというと、コロナのパンデミックになって、自分がパニックになったんだと思います。オンラインで何かやらないと、と
ホームグラウンドを留守にして、なんかやろうとして、ぜーんぜんです。
以下、★より下の文は、noteに書いたものです。
紙と糸を使う修理だから、製本とも関係なくもない、ということで、こっちにコピペしました。
後半は、コロナ後にずっとやっている、zoomでの音読です。製本や作品作りしないで、こればっかりやってる、と言っても過言ではないです。
つまり、長い長い考える時期、が続いてますです。
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友人から頼まれた、鯉のぼりのモビール、糸が切れちゃったので、糸を全とっかえしての直し。
ずいぶん前の、いせ辰の玩具なのですが、できあがって、吊るしたらすごく素敵でした。
モビールの糸の位置って、思ったよりはるかに微妙で、最後の調整にちょっと手間取りました。
それにしても、改めて、慎重にする作業って、心落ち着くと思いました。
縫いぐるみ用の長い針を使って、お腹からひれまで貫通させて糸を付け替えるのが
楽しかったです。
ちょっと実物の魚を「扱ってる」気分がありました。
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5月18日(水)は以下を読みました。
リチャード・ドーキンス 著
福岡伸一 訳
早川書房
序文
☆
まず、ニュートンが科学的に虹を解説したせいで、興趣が全て失われた、とするキーツのことを槍玉にあげます。
科学って、そういうことじゃないんだ、ということを丁寧に書いていく本みたいです。
そういいつつ、著者は、キーツの感受性をとても愛しているので、たくさん引用していくようです。そもそも、タイトルのUnweaving the rainbowも、キーツからの引用だそうです。
(音読した人:山崎)
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福沢諭吉 著、
岩波文庫
十編 前編のつづき、中津の旧友に贈る
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ものごとには順序ってものがある。
酒を飲んで遊び呆けてしまう人に、学問学問と勧めても効果はなく、まず酒を止めさせることだ、というのが印象的でした。
(音読した人:はやしさん)
伊藤 亜紗 著、光文社
第2章 感覚 読む手、眺める耳
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最初、毛であって保温などの役を果たしていたものが羽毛となり飛ぶことになる、つまり「器官」にはまだ発揮されていない豊かな可能性がある。
(まあ、何億年とか、進化にはかかるんですけれど。)
これと同じ質の可能性を、障害を持ってしまった人の「器官」が別の感覚に開かれていくところに見出していました。
(音読した人:こいでさん)
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湯川秀樹 著
岩波新書
「海潮音」
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昔の人は、本当に教養が深かったな、と思わされる、豊かな内容でした(物理学者じゃないみたい、って発言があり、山崎も大変失礼ながら、頷いていました)。
『海潮音』のことばの調子が、浄瑠璃のそれに似ている、と両方の例を挙げられると、確かにそうかもしれない、と思わされ、どちらも読んでみたくなります。エミール・ヴェルハーレンの「世界」という詩も。
(音読した人:きよもとさん)
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岩波文庫、松尾芭蕉
三二 有難や(曾良俳諧書留)108〜110ページ
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足引の、は、山にかかる枕詞。あとで調べて、それはわかりました。
全体的に、戦の凄惨な気配が感じられるところでした。
(音読した人:山崎)
2022年4月22日|製本と教室|個別ページ| コメント(0)
日記の改装
先日、70年以上前のお父様の古い日記を修理してほしい、というご依頼を受けました。
バラバラで読めないので、きっちり残る形に直して、読めるようにしておきたいということだったと思います。
送られてきた物は帳簿製本でした。
こんなふうに背がはずれ、表紙は綴じ糸と綴じ緒でかろうじてついている、という状態でした。
それを、こういうふうに直しました。
ダークグリーンの山羊革と単色のマーブル紙に少し手を加えたもので製本しました。
以下、だいたいどんな工程で修理(というよりも改装)したかを紹介してみます。
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帳簿製本というスタイルの製本です。
罫線は、赤の二重線でしきられ、三段になっており、赤いスタンプで三年間の日付が入っています(第二次大戦中です。これは書き手ご本人の入れたものでしょうか)。
三年日記として売られていたものなのだろう、と想像しました。
2012年に帳簿専門の恩田製本所で帳簿製本を習う機会がありました。
今回こうして直せるのもそのおかげです。
その企画をしてくれた、田中栞さんと東京製本倶楽部にはあらためて感謝です。ほんとうにありがとうございました。
革装にというご希望でしたので、帳簿の定型のコーネル装で、革の面積を多めにした形にすることにしました。
中身の糸綴じはほぼ残ってましたが、糸は劣化してるので、綴じ直すことにして、糸を切って、折丁に分けます。
この見返しのぐるぐる、ペンで描いて模様を作り、印刷したものと思われます。手元にあるもので作った手作り感が、いい感じ。
直す時に使うマーブル紙に、このぐるぐるを取り入れることに決めました。
テープ状に切った製本クロスを張り、一折づつ糸で綴じつけていきます。
綴じが終わって、これから背を固めるところです。
この段階で、
本は回復期に入ったというか、再生しつつあるというか、
かなり嬉しい気持ちになります。
背を固め、はなぎれを貼り、和紙で背貼りをし、
帳簿製本に特有のバネ(写真、グレーの厚紙)と うかし(背に渡っている白い紙)を貼って、中身の出来上がりです。
角革を貼った分厚いボール紙の表紙を貼り付け、
紙管に手を加えて作った背の芯を うかし に貼って、取り付けたところです。
帳簿製本は机の上で全開して書き込むために作られています。
机で全開した時、がっちり安定するために、固い背の芯を使っています。
背の革を貼り、みきり(革の切れてるとこ)を斜めに削ぎます。
このあと、空いた六角形のところに、革がぼこっと出っぱらないように、紙を貼ります。(その紙の縁(へり)も削いで、革の削ぎのところに重なるようにします。)
平(ひら)のマーブル紙を貼りました。
茶色の単色マーブル紙は、太めの青ボールペンでぐるぐるを加えてから使いました。
表紙の裏に、しっかりした紙を一枚貼ります。白いのがそれです。
反りを防ぐのと、革のでこぼこを解消する役目です。埋め紙(うめがみ)といいます。
見返しを表紙裏に貼り、みきりに金線を箔押しして完成。
金線はルレットという大きなピザカッターみたいな道具を使います。
金を入れると、ぐっと見栄えがします。
表紙を開けたところ。平と同じ柄で 緑の単色マーブル紙を使いました。
めくると、元の見返し(遊び紙)も残してあります。
左側、新たな見返しの裏は、似た色の紙を裏打ちして、違和感のないようにしました。
見返しは、製本クロスでつなげて、糸綴じしています。これでかなり丈夫です。目立たないようにサインも入れました。
もう書き込むことはない本ですから、普通のハードカバーに仕立てる、ということも考えましたが、のどまで字が書かれているわけですから、やはり帳簿製本の形しかありえないと考えなおし、そうしました。
(普通のハードカバーの本は、のどまで完全には開きません。
読むためにはそれで充分なのと、その方が型崩れしにくいですから。)
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本との付き合い方で、私に特徴的だと思うことは
本を出版する側でなく、受け取る側に居る作り手だ、ということです。
量産された本が、誰かのところで個別のものに変わっていくのに手を貸す、のが役目。
作業の時は、全然そんなことは考えないけれど、出来上がったものを見ると、
あれ?何かが変わった、
と感じます。
長年使われたものが つくも神(がみ)になる、ということを思いだします。
更新がとても不活発になっている、このウェブサイト。徐々に手を入れていこうと思うようになりました。
コロナで、身動きがとても少ないまま、zoomで「本を読む」ことを続けてきました。
「本をなおす」ということをすると、「手」という、ことばを持たないものから、何かが入ってきて、自分の再構成が促される感じがします。
2021年2月 3日|いろいろ|個別ページ| コメント(0)
逆転現象ですね。先に生まれた、っていう語源だと聞いたことがありますから。
参加してる、多言語の自然習得実験グループ、ヒッポファミリークラブ。ここでは「赤ちゃんになろう」が合言葉です。
自然習得がリアルにおこってる場を、観察して、まねてみます。中身を想像してまねます。(「先生はいない」も合言葉なのだけれど、強いて言うなら赤ちゃんが先生です。)
あ、でも、今書きたいのは、そのことじゃなくて、今度やる部活とか、ITとかのことです。若い人が先生。です。
今、社会は、ITの進化が日進月歩でなく、多分、秒進分歩。としをとるほど、それまで一生懸命身につけたものが邪魔して、新しいのが、すっと入らないです。
スペース的に入る余地が無い、というよりも、考え方が定まってるので、異物を入れにくいのでしょう。
としを重ねていけば、経験を積んでいるのだから、管理をする立場になり「責任」あるポジション、などになってくる、のは、少し前までの常識だったような気がします。
だが、今は、若ければ若いほど、先生、という状態が生まれてます。
こうなってくると、気楽ですよ。
としを取るほど、教われる。ああ、お年寄りだから、わからなくて当たり前だから、教えてあげましょう、って優しい若い人なら思ってます。だから、てらいなく教えてもらえます。もはや「責任」どころの話ではないです。
そして、このことは冒頭に書いたことにつながると思います。
若い方が、赤ちゃんの方が、生きてることの本質に近いです。
構築されすぎた社会に生きる私は、生きることの本質に近いところから学ぶことが必要です。
私だって、かつて一度は赤ちゃんで、一度は一つの細胞で、そこを経て、今に至ってます。生きてる限り、そのことは自分の中に残ってるはず、と思っています。
2021年2月 2日|カッターナイフ|個別ページ| コメント(0)
このところずっと、段ボール段ボールと、一人騒いでいる私。とうとう入口というか出口というか、口を発見しました。
段ボールとカッターで遊ぶラボ
という名の「部活」やります。
だれでも無料で参加できる、ウェブ上の部活プラットフォームで。
今月後半にリリース予定の和佐大輔さんのやる、
ENERGEIA(エネルゲイア)というサイト?(このあたりの用語の正しい使い方が全くこころもとないです)です。
「部活」から始めて、自分の有料の講座につなげるのも、もくろみの一つです。
昨年末にスギオカさんからちらりとその名前をお聞きした、和佐さんは、オンラインビジネスのカリスマのような人だと。とりあえず、公式LINEに登録して、なんとなーくメッセージを読んで共感したりしてる内に上記エネルゲイヤの、第1期の部長を募集、というのを知りました。
で応募して、こないだからFacebookグループやzoomのセミナーで、第一期の部長さん達と和佐さんで集まって、部活どうしたら人が来るか、続いていくか?とか検討しあってます。200人あまりの一期部長さん達、やる気に溢れてて、楽しいです。
学校に入学した時みたいに、どんなやついるかな?どんなとこかな?っていうドキドキと期待する気分。
あれ?学校嫌いじゃなかったっけ?自分。
そうです。学校は嫌いです。
しかし、図書準備室とか印刷機のとことか入り浸ってる場所あったな、そこには友達も居たな、と思いました。
セミナーや書き込みで、段ボールだけだとありふれてるとわかり、自分にしかなさそうなこととして、カッターが意識に浮上しました。身近すぎて自覚無かったですが、私の段ボール遊びって、カッター使わないのって、多分無いです。
そして、ここが鬼門、って感じていたから、無意識に避けて、気づかなかったのかもしれないです。
使うの難しいし、危ないし、教えられるの?
でも、こここそが、実は、自分のお楽しみの源泉です。
切る方法を考えて、発見して、一人でわーって盛り上がったのを思い出します。
厚いボール紙をサクサク
(これは、作業音ではなく、はかどる気分の擬音語)
等分にしていくのはすごく楽しい。
今回はボール紙じゃなくて段ボールだから、擬音的にもサクサクっぽいです。
(え?段ボールとボール紙ってどう違うの?と思う方もいらっしゃるかも。そこらへんもしゃべりたくなるとこです。)
マニアックでいい。むしろマニアックがいい、という和佐さん(と木坂健宣さん)の話もあって、
マニアック(って自分では思ってないけど)なカッター使いを丁寧に動画などで説明するのも楽しそうと思っています。
というわけで、近々詳しくご案内します。
普通にネット見る感じで、無料で登録すれば、いろんな部活がそろってて、その中に私の段ボールのもある。知ってる人にみんな知らせて、一度見にきてねー、っていえるのが、とてもいい感じです。
2021年2月 1日|読んだ本|個別ページ| コメント(0)
zoom音読で、読み終わった本『ひみつの王国 評伝石井桃子』(尾崎真理子著、新潮文庫)。
去年の9月9日に読み始め先日1月21日に読み終わりました。
4ヶ月半かかりました。この本は、このようなスタイルでの音読でなければ、私は決して読了することは無かったと思います。
これだけの、書簡や証言の引用の見事なコラージュを読み込むには、相当の粘り強さが必要だと思いました。
そして、もちろん、私に残るのは、この本で石井桃子さんの向こうに透けて感じられる「ひみつの王国」ですね。それはなになのか?
この「王国」は、こどもならば、必ずそこに居るところ、かな、と思います。
大人である自分は、見えなくて、かすかに空想するだけになってるところですね。
大学生の時、三木成夫先生の「生物」の授業で習った「食と性の位相交代」という言葉が思い浮かびました。食べて成長して、成熟したら生殖する、ということだと思います。大人になる、というのは生殖の相になる、ということですね。
もう「成長」の段階とは、全然別物の状態になっている。
三木先生の著書『胎児の世界』の中に、ゲーテの絵を三木先生が模写した絵があります。
バラだと思うのですが、一旦つぼみが開いたら、また中から茎葉が伸びてる、という図。
それに響いて自分が描いたハガキ(1990年代?の年賀状)の絵を貼っておきます。バラではなくハスで、しかもヤママユガのオスの触角と吹流しが生えてますが。。
ゲーテの図は、私には、妙に美しいんです。
大人になっても「ひみつの王国」にアクセスできてしまう、ってもしかして、その図のようなことかな、と思いました。
そして、それは生物の世界では奇妙なことですが、人間という奇妙な生き物の世界ではしばしばあることで「いのち」へ繋がる通路の一つかな、と感じます。
というような観察は「美しい」としても、やっぱり、外から眺めた感じですね。それがこのハガキの絵に現れてるように感じました。20代ってそうかもしれない、って50代後半で思う私です。
小学生の時に「ナルニア国物語」の魅力に憑かれていた私は「本の中にある世界」(これが、ひみつの王国、の一つかも)に行っちゃっていたことがあったのかもしれない、という気がします。
そのリアルな記憶はないのですが、現実の学校生活が、とても嫌だと感じていた、ということはかなりあったので。
この「世界」は、なんというか、こころ安らかに感じる面と嫌で恥ずかしいと思う面と、が両方あるような気がしています。(著者が、この本の表紙にヘンリーダーガーの絵をもってきてるニュアンスがわかる感じがするのです。。。まあ、ダーガーは恥ずかしいって思ってないかもだけど、人には見せてはいなかったのだから。。思ってたかも。。。)
こういう「世界」を、本の中に持つことが、いいことなのか?
でも、いいわるい関係なく「ある」んですよね。人間っていったいどうなってるんだろうなぁ、と強く感じます。
前のブログ更新が2020年7月25日だから、ちょうど半年、更新できなかったことになります。
今、教室は、完全プライベートレッスン(1回に一人づつ)で、適当にやる状態にしてます。
オンライン講座は、2019年始めに試みて、動画での指導は、去年の大学のリモート授業にはとても役立ちました。
Zoom歴も2016年からだから、その点は苦労してないです。
しかし、それまでにやっていた「教室」の変わりになるものでは全くないですね。それはわかっていました。
動画を作ることや、それを構成することはとてもピンときてるのに、それで教室をやることが、全然ピンとこないので身動きができなくなりました。
そして半年。
Zoomで興味のある本を音読したり、
ヒッポの多言語活動のオンライン(音をまねして声を出したり、関連書籍の音読なども盛んにやって、自分個人がやってる活動と結構重なる感じ)、
リアルでは都立工芸高校で教えたり、
大学は全部リモートで教えたり。
いくつかのオンライン講座を受講していて、これからの処し方を学んだり、
してました。
(妻に食べさせてもらっている、20数年前にもどってましたね。)
で、ブログを主に、アメブロで書いていくことにしました。「製本アーティスト」というより、もっと広いポジションから表現してみたくなったのかもしれないです。
空想と類推 「飛ぶ本」の内容は?
このウェブサイトでは展示の告知などは随時していきます。
よろしくお願いします。
動画、という自分にとって新しい方法が見つかった。
自分の「説明欲」を満たしてくれる、場。
映像にも写真にも苦手意識があった。「美術」界で育ってるので「美的にちゃんと」しなきゃというプレッシャーがあり、しかも「枠」というのが苦手なのだ。瞬間のフレーミングがうまくいかない。
今は、それは気にならない。完成度とか関係なく、言いたいことをわかりやすく。(ひどい英語でもとりあえず気にせずしゃべる、という気持ちに似ている。)
お金を取るんだったら、このくらいやらないと、というのが常に付き纏う。
それはこれからも変わらないだろうけど、
「完成度」=「ちゃんと」によってお金が動くことには、無駄な労が多く、性に合わない。
でも、元々の性分として「きっちり」「キレイに」作りたい、っていう気持ちはすごくあって、そのために様々の手管を使う。「キレイ」は手順が整然としてるという事。結果として仕上がりがそこそこ良くなる。だから、どうやったかを説明したくなる。中高生が数学の証明を黒板に書いてる感じ。
賛同が得られたらより嬉しいけど、そうでなくても、まあいいか、だ。
動画での説明は、今までのやり方に比べて「痒いところに手が届く」感がある。
しかも、無料でできるから、プレッシャーがない。ダメだったら、取り下げてやり直せばいい。実体が全く無い、ということも面白いなーと思う。(いよいよ偽物っぽい。でも、概念には実体はないのだから偽「物」ではない。でも、動画は「概念」なのかどうか?うん。やっぱり概念だと思うな。四角の枠に平らな何かが映って動いて、それ見て喜んだり泣いたり感心したりするんだから、積極的に騙されたい)
だからなのかはわからないが、何が一個いくら、っていうのではなく、たくさん作って、自分はこういう者ですから、生きていてもいいですか?と、全体で表現できるので、たくさん作って、認知されていけば、それなりに生きていけるはず、って思っている(ところどころで、有料の講習とかもやろうと思っています)。まあ、ブログでもそのつもりではあったのだけれど、製本のやり方を教える人、は、私の一部であって、それは全部に繋がってるのを表現しやすい。
私は60年近く生きてきてしまって、(かつて)かなり売れた製本の本の著者という、財産?があるから、それを素直に使うことにする。誌面の都合で説明や図を省かなければならなかったり、後からもっといいやり方を見つけたり、こっから先は自分で考えてねってせざるを得なかったところ、などなどを、
「今の自分はこうやってます」
と、詳細に表現できるのは、本当に気分が晴れる。
それに、絶版になった自著を、別の形でまだまだ生き延びさせる、っていうことにもなるのではないかな。
yo yamazaki チャンネル チャンネル登録よろしくお願いします。面白いのいっぱい!となるように、自分が楽しく作っていきます。
https://www.youtube.com/channel/UCypF12ogwCgmIvactfngjOg?view_as=subscriber
2020年7月17日|手で作る本|個別ページ| コメント(0)
花ぎれ部分です。
この図は、本当にしんどかった。
やり方の図ではなく、最後のイメージ図、がです。
『手で作る本』の図は、すべて原図を自分で描いています。
美大でデッサンやったのが、初めて役に立った、って思いました。「絵」は説明のためにある!っなーんて思って。(でも、プロフェッショナルなイラストレーターでは無いから「わかりやすさ」を狙いつつも「描きやすいポーズ」を選んでしまっているところも多いかな、と。作っている当時は、打倒「製本の楫」の武井武夫さん!って頑張りましたが、やっぱり武井さん、プロだわー、と思い知りました。)
描いた原図を、イラストレーターの飯島満さんにイラレで仕上げてもらいました。
で、原図に無い線は描けないということで、イメージ図なのにものかかわらず、全部詳細に描かねばならず、吐きそうでした。
(後で考えると、太い紐で、大きいモデルを作って、それをスケッチすれば良かった、と思いました。)
ま、何れにしても、15年後の今は、もはや図の絵を詳細に描く気力はありませんね。