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『「痴呆老人」は何をみているか』 大井玄 著
2009年2月20日|ブログ|個別ページ| コメント(3)
数ヶ月前に、予約を入れて、待っていた本。何故、予約を入れたのか忘れてしまったが、多分何かの書評だろう。
ともかく、「腑に落ちる」内容だった。
今の日本(そして世界)のさまざまな問題点。例えば、老人の介護、若者のひきこもり、戦争とかちがう宗教の人への攻撃、など。
著者は、介護が必要な老人を診る、医療の現場での観察から、「人間」というものが、どのように世界を認知し、生きているのか、についての一つの理解を書いている。
こう考えればわかるな〜、と、深い所で感じた。
「がんばっていこうよ!」と直接言葉をなげかけらても、かえって「そう」は思えない。
逆に、この本では、現状を冷静に観て、解釈して得た考えに励まされる。
介護真っ只中ですが、人間も含め生き物は進化するものかと
思っていました…。どういう意味があってヒトはボケて
いくのでしょうか…。施設に行ってたくさんの認知症の老人に
会うたびに、その謎、その暗闇に迷います…。
ただ、逆説的かもしれませんが、良い行い、悪い行い、
経て来た人生が何であれ、認知症になっていくならば、
人間ある意味平等のような気もします。
私は、高校生の時の愛読書が「マルテの手記」だったんです。
マルテの人生の中の、断片がちりばめられていて、そのどの断片もとても心に残ります。幼い時にソファの下の絨毯を動いてくる「手」とか、母親と古い美しいレース一枚一枚見て行く時のこと、夏の心地よい庭で収穫したスグリをフォークでむしるアベローネとの会話、一角獣と貴婦人のタピスリー、などなど。
その中に、故郷ウルスゴーネ(でしたか)での、祖父(だったかな)が年老いて苛烈な人格に変化したエピソードもあります。現代でいったら、徘徊とか、怒りの爆発とか、そういった痴呆の症状。嵐のように荒れ狂う自然、として描かれていたように思います。それを「自然」として受け取るのか、あるいは病として受け取るのか、どう受け取るのかは、その時代や地域の文化なんだろうな、と、上の本を読んで、改めて思い出しました。
自分の祖母が、そうなった時は、みんなやはり苦しみました。言動などが、理解不能。そして、やはり怒り、ものを取られたのではないかという疑い、などなど。
突然の態度の変化は
ありますね
また別の老人だが、なにかショッキングな事が
起きると一気に という事もあります
会話が続かない、いろいろ話をさせようとすると、
よく「覚えてない」と悲しがる場合もありました
もの取られ妄想は、つきあう事が困難です
親身に世話した人ほど疑われる場合もあります