「痴呆老人は何を見ているか」の中で引用されていたのが動機で読んでみた。前半は引きこもりに至るまで、そしてその最中の記憶をつづっている。後半はその自分を観察して、いったいそれがどういうことなのかを、読み解いている。口調は激しい。
「お金をかせぐこと」「社会とつながる回路をもつとは」など、人間という存在の根本的なところにタッチすることが書かれていると思う。まさに「ここ」だな、患部は、という感じだ。
私は引きこもりではなかったが、学生の時のことを思うとそれに近い気配はあった。また就職もいいかげんだったし、小学生のとき「将来何になりたい?」というよくある質問に、ともかく「勤める」のだけはいやだな、と思った記憶がある。そういった点では、上山さんに共感できるところはあるけれど、今も少し前からも楽しくやれているから(何しろ勤めてなくて家に居れるのだし!)、「共感した」と言っても、おもねっているだけになるのかもしれない。
自分の中の「お金」の意識の仕方が、実は、ぼかしが入っている感じがする。「仕事をして」お金をもらう、って思っているようないないような。「仕事が遊び」「遊んでお金をもらう」とか。都合のいい時だけ、「仕事」にして、都合が悪くなったら「遊び」。そのすり替えを世間から怒られない範囲でやっているのが、自分だな。
今は自分は「求められてる」と思えるし、そのこと(手製本周辺)にお金を払って、来てくれる人がいる、ということに、ものすごく、支えられている。というか、ほとんどそのことだけで「生きている」。ここに「自信」がある。そのことが安定してきているので、自信も安定してくる。それだけのこと、と思う。
私はつきつめて、考えることはつらいので、そうしないことでバランスをとっている。
ひきこもりになる人は本当につきつめて考えてしまうのだろう。そういうタイプの人も必要なんだと思う。そうでないと、この本で明らかにされている「問題点」は見えないだろうし、それに耳をかたむけないと、どこに問題があるのかわからないから。
(この本は2001年に書かれている。現状はそのころとどう変わったろうか。
わたしの場合は、勤めることがある種のボカシになっている感じがあります。
自発的に「儲けたい」という意欲をなかなか持続することができないので。
社会の中にあるようで外れているといいますか…。
難しいですね、この問題 (^-^;
人それぞれのやりかたでなんとか(折り合いをつけるとはいかぬまでも、なんとかして)「生きてる」状態を保ってるんでしょうね。
急に思ったんですが、「閉鎖系」の循環を上手に保っていた江戸時代の職業観ってどんなものだったんでしょうか。
江戸末期、ヨーロッパから来た人たちの印象では「こどもが大事にされているとか、いきいきとしてる」とか、「身分の枠はあるが、その中でみんな幸せそうだ」などの感想を読んだような記憶があるのですが。
(今、地球が閉鎖系だと考えないと、未来がないというふうな空気になっていますよね。)