このところ、教室での自分が変わってきてるように感じる。
「製本をする人」としての私自身の育ちかたは特徴あるものだと思う。
西武池袋のカルチャーセンターの入門コースで1年習って、フランスで学んだ製本技術者の弟子を2年やった。教えてもらったのは以上。あとは教室をやりながら、注文をうけながら、実地に学んだ。
(はじめのころは、毎週の教室のワンレッスン2時間半をどうやってきりぬけるんだ?とか、はじめての注文の本でタイトルがうまくはいらず泣きそう、とか・・・。そこで「やめちゃお」て方向にならなかったから、本当によかった。そういう状況をなんとかできると、次も自分はなんとかしてくれる、っていう自信ができるんだよね。その一線っていうのはやっぱりあるな、と思う。そしてなんとかしてくれるのは、この文を今書いている意識の「私」ではなくて、全体としての生き物としての「私」なんだ。)
その人にあったやりかた、ってことを考える。
一方で人のやりかたを一度自分の体の中に入れてみることの大切さも、思う。
今思うと、弟子の2年間というのは「人のやりかたを一度自分の体の中に入れてみる」練習だった。疑いをさしはさまず、入れてみる。それはかなり苦しいことだ。疑いをさしはさまず、っていうことがまず苦しい(すでに大人になっていたし)。だって自分の方法とどっちがよりあってる?って考えたらできないことだから。この葛藤に数ヶ月かかったような気がする。
教室ではそれは難しい。が、そういう要素も必要だよ、って近頃思う。自由に作るのが楽しいに決まってるけど、不自由な中でどうできるのか、が、生き物という制限のあるものの中における「本当の自由」ってやつだと思う。そう考えるのもやっぱり何回か枠にはめられる窮屈さを味わっているからかも知れない。
学び方もひとそれぞれ。別に「人のやり方を一度自分の体に入れてみる」ってやらないやりかたもあるだろう。それぞれの学び方に、良い点と欠点があるだろう。
だが、自分のたまたまな運命を、利用してベストを尽くすだけだな。
他人と上下はつけまい。いっつも他人を見て自分と比較してしまうけど。
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