甲野善紀さん関係の本を読んだ。最初の著書『裏の体育、表の体育』、『剣の精神誌』、田中聡さんがまとめた『身体から革命を起こす』、養老孟司さんとの対談『自分の頭と身体で考える』、多田容子さんとの対談『武術の創造力』、田中聡さんと中島章夫さんの共著で甲野さんの術へのアプローチ方法を書いた『技アリの身体になる』。そして、DVD『甲野善紀の身体操法』。
書くこと、や、書いてあるのを読む、ことについて考える。「たとえ」は、わかったような気にさせるからよい、と同時に誤解というか「そうじゃない腑に落ち方」をしてしまう、悪いところもある、などと書いてあった気がする。
とても説明がうまい。
江戸時代に洋式の時計をばらしてみて、和時計を作る、とか、ウィリアムモリスのパーチメント装を写真をみただけで(こうなってるのかな〜、と)作る、などなど。言葉で書いてあることって、そういう感じがする。
身体を使うこと、って実際にやってみなければわからないけど、残された言葉をうけとって意味を身体でさぐりながら、作業していくことっていうのがどうしても必要。
文字になった言葉っていうのも、そうやってもう一度身体にもどして解釈していくと、とても大事なものなんだな、って思う。
身体にもどしてあげれば、「言えないことを表現した」文字になった言葉が生きて来る。
「本」を大事にできそうな気がした。
後半あたりからよくわからないのですが、
私の理解力が少ないからでしょうか。
あげられている本を読んでいないからでしょうか。
でもなんだか面白そうな気がしました。
フランクさん、コメントどうも。
えーと、よくわからないのは私がとりあえず書いてるからでしょう。
小説とかそういう表現作品じゃなくて、単純にやりかたを伝えたくて書いたものを読んだ場合のことがいいたかった。
作業を見せればすぐわかること(または見せたってわかんない、ってことも多いけど)を、書き言葉(および図)にして印刷物にするのは、かなりの手間です。2冊技法書を作っての私の実感です。言葉という「形」に整えるのは、すごく手間なのです。
しかも、です。読み手が、それを解読して、手を動かして何かを作る、ということをするのが、またまた、かなりの手間なのです。
「じゃ直接見せて伝えれば」と、実演とかDVDとかにすれば、いい。言葉の介在は、面倒なだけで、伝わりが遅く不正確で、いいとこなし。と、短絡して考えることもできます。私の中にもそういう気分は大。
じゃ、言葉にする意味は?それは「抽象化」ということのような気がする。他人の頭が考えた、感じたことが「言葉」っていう形になり、それを、自分の頭で再構築できる、ということ。それは、自分で味わいなおす、ってことで、この自分で味わい、考える余地を与えられてるのが、作業→言葉→読み取る→作業、っていう技法書の、映像ではできないよい点なのだと思う。
で、武術の技法書(っていうの?伝法書?)を甲野さんはいろいろ読んでいて、これってこいうことなのかな、と生身の人間には伝わっていないことを自分の身体で再構築しようとこころみてる。
そこで、鍛えられた読み取り能力を使って、自身の本も書いている感じが、いい。
ご返答ありがとうございました。
自分なりに合点しました。
技法書を作る難しさはわかりませんが、
「自分で味わいなおす」楽しさは、読む人としてわかりました。
あと、分からないところはもう少し考えてみればよかった、と思いました。