2009年8月19日|太極拳と気功|個別ページ| コメント(2)
8日の甲野さんの講習。
剣道やったこともないのに、「はいっ!」と手を挙げて、ずうずうしくも革を巻いた竹刀を持って、術を体験させていただいた。まず、普通の打ち方。これだと気配がありありなのでよけられる。はず、普通は。だけど、甲野先生に「この位はよけてほしいな〜」と言われてしまう、私のとろさ。半分以上、打たれてしまった。しかし、そのあとの気配を消した打、やはり、違いはわかった。全くよけられる気がしない。竹刀じゃなくて体術系の時にマット上へ行けばよかった、と後悔したけど、めげずに、そのあとも、合気道をやってる方の質問に乗じて、再度マット上へ。しっかり掴んでるはずの腕を難なくはずされる、なんだかわからない内に転がされている・・・など、体験しました。どちらも「あれっ?」という感じ。実感が希薄です。
そのあと、この10日くらいで「武学探求」「武学探求2」「韓氏意拳 拳の学としての意味」と読んで来ました。ものすごく、面白いです。はじめの二つは甲野さんと光岡さんの対談。
印象的なのは「一番近くにある自然は「自分」だ」という見方。そりゃあそうだな〜、と深く感じ入ります。人間や社会の作った規則を抜きにしてわれわれ生き物を統べているのは、自然の摂理です。武術は、ある状況では人間の作った規則など関係なく、相手を殺傷する技術。その無法地帯で有効なのは、その自然の摂理、というようなもんでしょう(ライオンが水牛を食べたり、水牛の逆襲でライオンが殺されたり・・・)。
自分は「考えているゆえに」自分。だけど放っといても、息をして、消化して、代謝して生きてます。その生きてるのは自分以外の何者でもない。
意識の上では(実際に)戦って相手を倒そう、とか、なんとしても護身しようというような気はそんなにないのに、なぜか武術に引きつけられるのは、多分、上記のようなことがあるから。
站椿功(と、言えないかもしれないけど、ただ、立つの)が面白いと思う今日この頃。
とりあえずやりたいと思った時に、とりあえず立ってみて、どこにどう力が入っちゃってるかとか、いろいろの感じを味わうのに飽きません。
甲野さんの講習、気になります。
というか、違った身体の使い方に、わたしも興味が出てきています。
八卦掌あたりも気になるのですが、やはり近場でやれるかどうかが
大きいですよねぇ〜。
いやーそうですよね。この間、講習(あ、自分の製本のね。)のとき、カズキさんにちらっとお聞きした、「三軸修正法」、検索して「身体の言い分」内田樹+池上六朗著、さっそく読んでますよ。池上さんの言葉に、非常にいい感じのもの(掴みがたさを含んでるゆえ、はっと新鮮な)があって、対談なんだけど、何回か読みたくなるという感じがします。
八卦掌は、お知り合いの方がなさってるんですよね。
私は、太極拳の先生が毎週のお稽古のあとに、自主トレみたいな感じで、本当に遊びとしてやらせてくれるのをいいことに、ぐるぐると円を描いて、やりたい人数人と盆踊りという感じで遊んでます。このところ甲野さんから派生していろいろ本を読んでますが、八卦掌の歩法っていうのはすごく重要なもののようです。(なんにもしらないところから遊びとして入っていって実はすごく面白いものだった・・・っていう実感)