先週は、自分の教室の合間に大学の課題の講評がはさまる状況があった。
20余年育ってきた人間たちはサイズはそんなに違わないのに、みんなものすごく違うというか個性がある。生まれたときから違っていたし、育つ環境でもっと違っていったにちがいない。同じ「デザイン」を目指してると仮定して、ほんとうにちがう。
器用なやつ不器用なやつ。俯瞰的に考えられるのかバランスのいいもの、一点からひろがっていくように作品を作るもの、どっから考えるとこうなんの〜と思わせるもの。
この1年生のひとつの課題(「本を作る」っていう課題)のアドヴァイスに、私は年にこの時期の3〜4回だけ大学に行く。この課題は私が学生のときからかわらないものだ。絵を中心としたA4サイズのハードカバー、という条件はあるものの、実際にはかなりはずれたことをやってもかまわない。それだけに問題の見つけ方というのが問われる。デザイナーというのは問題の見つけ方のセンスで世の中を戦い抜いていくものと思うので、切り口のシャープさやクレバーさ(時にはそれを感じさせず?)が必要。だからこういう課題もあるんだろうか、とも思う。
でも、好きで作ってたら、問題の見つけ方なんか問題じゃないなって感じさせるような作品がある。「筋トレしようよ、がんばって」なんて言われなくてもつっこめるとこまで徹底して突っ込んじゃう、みたいな。
あーあ、才能ってなんなんだろう。
読みさしの「ご冗談でしょう、ファインマンさん」Ⅰの中、大御所ニールスボーアに呼び出され議論を吹っかけられ、ボーアの理論の検討役をさせられる若きファインマン。そのシーンの後の述懐。以下引用。
『 僕はいつもそういった意味では間抜けだったのだ。話す相手が誰であるかなど、ついぞ気にしたことがない。僕の関心があるのは、いつも物理学そのものだけだ。だから誰かの考えがお粗末だと思えばお粗末だと言うし、よさそうならよさそうだと言うだけの話で、いとも簡単だ。
僕はいつもこういう生き方をしてきた。誰でもそれができれば、たいへん楽しい生涯が送れるはずだ。こういった生き方のできる僕は、実に幸せな男と言わねばなるまい。』
今日はヒッポのレクソロジー。去年のボルネオの交流(向こうでステイ、こちらで受け入れ)の話を少し話させてもらえる時間がある。多言語もどんどんしゃべる人もいれば、なかなか、な人も・・・・・・うーむ・・・・・まあ、しつこくやるだけだな、自分は・・・
マーカス・バッキンガムという人は、才能を「習慣化している生活態度」と
言っています。
苦労しなくても(いや、場合によっては苦労をするにしても)自然にそれが
できる生活態度がその人の才能だと。
その考えで言うと、「才能がある上に練習をする」っていう現象は、
「練習をする才能がある」ってことになりますね。
賛否あるかも知れませんが、おもしろい考え方だと思っています。
>カズキさま
なるほど。そういう捉え方もできるんですね。たしかに。
私の気功のO先生は
「体が曲がっている、と言われるんですが、直すにはどうすればいいですか?」
という質問に対して、
「それを直そうと考えるより、その曲がっている状態で新しい習慣(たとえば、信号で待っている時、背筋を延ばしてるかなとチェックする)を身につけるといいですよ。曲がっているのは施療で一時的に直せても、すぐに元にもどってしまう。でも新しい習慣は身につけることができるから」
とアドヴァイスしてました。
そのことを思い出しました。