この間の日曜日はヒッポファミリークラブ主催の「人間はどのようにことばを獲得するのか?」というテーマの講演に行った。
スザンヌフリン先生と酒井邦嘉先生のお話に、パネルディスカッション。
酒井先生の科学のやりかたの話が興味深かった。MRIやfMRIの仕組み、人間の脳のマッピング(どの部位が何をしているのか)をどうやるか。これは文法の問題をやらせてみて、少しだけ問題の条件を変え、その時どのように脳の動いている部分が変わるのかのデータをとって言語を司る部分がどこかをこまかく特定していく、という地道な作業。データを蓄積し実証していくのが科学の態度なのだ。それは前に福岡伸一さんの本を読んだ時もきっちりと書かれていたこと(野口英世の失敗を実例として。「生物と無生物の間」だったかな)。
科学は、測定、観測する技術の進化とあいまって新たな世界の理解のしかたを示してくれる。
自分は科学を志すものでないが、興味は津々。いわば科学ファン。
と同時になぜ、科学をやろうとしなかったか、と言えば、と考えてみるに、自分にはそのような客観的実証がそんなに必要ないと思っているのではと思い当たる(いや、これは後付けの考えだな。下で書いてるように勉強がいやだったんだ。)体感したい。身体でさとりたい、のだ。
それで、科学的に実証されてないけど、経験的に「そう」とわかっている世界にも引かれる。漢方の世界とか。
科学は、実証のための数式やら理論を理解するだけのものを持たねば、理解できない。だが、このときの「理解」は私のもとめる体感とは科学者にとっては同じかもしれないが、自分としては違うもののような気がする。
ヒッポは、フーリエ変換から量子力学、DNAへと科学へのアプローチを独自のやり方で試みていて、そこに私はかなり引きつけられて(多言語のある日常(7カ国語ではなそう)、ことばと人間を自然科学する、をテーマとする団体なのだが、)いる。勉強がいやで高校から美術系へ舵を切ってしまった、私には、大学でやるような研究という(含む科学)ものにそこはかとないあこがれと引け目をもっている。私のような人もふらふらと引きつけられるものがヒッポにはある。(ヒッポは別に「自然科学する」と言わなくてもいいと思う。体感するために、科学とも芸術ともつきあっていく、という感じでよいのではとは思うが。)科学的理解は、進化して変わっていく。それは体感をするときの手がかりを提供してくれる。もちろん、目をくもらせる効果もある。どちらにせよ、懸命により新しい理解に挑戦する科学者の研究は、面白い。
スポーツを見る人のように、科学を見る。そしてできることを自分でやってみる。
スザンヌ先生の講演のこと全然書かなかった。。。それはまた。。。。。
酒井先生と中村桂子先生の対談がここにあります。
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