パリで、日本のアールブリュットの展示をやっているのを、日曜美術館でやっていた。テレビの画面で見ても、すごそう。クオリティ高そうだ。
と思いながらもうちの教室の作品もなんだかアールブリュット的なところがあるかも、と思い当たる。「この時間、この空間の中でだけは、私は何をしてもいい。楽しい!」とみんなが思っているからなんじゃないか。
印象に残ったのは、展示をしている美術館の館長が、「アールブリュット」はフランス(だったかヨーロッパ、と言っていたかも)で発見(「発明」のようなことばだったかな?見いだされたというニュアンスか?)されたものだが、もはやここ(ヨーロッパ)では、真正のアールブリュットを見いだすことは困難。」
と言っていたこと。人に見られることになると、もう、それは存在しなくなっていくのか。見られないはずのものが見られたからアートたりえたが、それが見られるという前提を得てしまうと、本質が変質してもはや元のものでなくなる。そんなことなのか。
アールブリュットの作家たちはそんなこととは関係なく描き続けていくものも多いのではないか、と思うが、意外にそうではないというのはなぜなんだろう。見られたら変わる。受け入れられたら消滅する。芸術を生む、テンションって不思議で面白い。(というかアールブリュットの場合、「それ」を「芸術だ」と他者が見なすという行為が問題なのかもしれない。本人が「それ」を「芸術だ」と言ったのはデュシャンだけど。)
「芸術」は不健全をバネにしたり、不遇をバネにしたり。
満たされて何も生まないのもまた、よいのでは、簡単には言えないけど。
ああ、本当に簡単には言えない。泉が枯れてもその状況を受け入れるしかない。
自然と同じで。だが、もがくよね。
さて、今年は3年に一度の教室展を9月14日から19日に世田谷美術館の区民ギャラリーでやります。(14日は搬入もあるので開始は少し遅くなると思います。)
来週DM用の写真を撮るので今作品をみんな持って来てるんですが、
あーっ。。。。ってなんとなく、感動。
DMが、そして展示が楽しみになってきた。
見られても変わらずみんな作品を造り続けて行きますよ。
というかみんな人に見せたいと思う。
絵などの展示より、見に来た人と自然としゃべるんだよね。本の展示って。
しゃべったり、拡げてあげたり。
見せにくい、展示しにくいものを並べているっていうことが逆にとてもいいことのよう。
わ、9月ですね
楽しみです
この夏を生き延びないとね
(まずは暑そうな梅雨を)
メールアドレス変わりました
アールブリュット 日曜日に再放送見ました
フランス人のその発言 私も気に掛かりましたが
ある程度知名度が上がり
あるいはそれ目当てに、コドモに絵を描かせるというような
現象が生じているのかなと
思いました
ここに戻ってきて、うーむと思った次第です
アールブリュット
このブログを見たのちに
すっかり忘れて
日曜に見ました
良かったです
作品の感動はどこにあるのか
私にはわかりません
雷雨の夜に
作品の感動はどこにあるのか、私にもわかりません。
多分、全体にあるんでしょう。まつわりついてる「いかにも作られた」あるいは「ごく自然に見える」ストーリーなどや、時代背景とか、ぜーんぶ含めて。
冷徹に「作品だけを見る」ってことはありえない、にもかかわらず、ついつい「そうしようと」形だけでもしようとてしまうのは、美術畑の出身だからに違いありません。