2010年12月22日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
自分の何かが変わってきた。
このところ、月火の夜は息子とヒッポの「ファミリー」に参加している。
一昨日は、2年4ヶ月の日本滞在を終えて帰国する、韓国のHさん親子3人(日本に来て2ヶ月でヒッポに参加)を囲む感じの会になった。彼らが家族でやりとりする韓国語が聞こえて、それが今までとは違う感触だったのだ。あっ「できる?」って聞いたんだな、と思った。わかった、と明快には言えないが、すごく「知ってる」感じ。
来年3月に韓国に交流(つまりホームステイ)に行くことになって、それまで聞き流れてしまっていたCDの音が随分と別れて聞こえるようになってきた。「別れて」とは、ここで言ってるこの音と、あそこで言ってるあの音が同じじゃないか、とか、そういうこと。
去年(といってももう随分前だ、)マレーシアに行く前に中国語やらマレーシア語を聞いていたのとはかなり違う感じ。
それは、多分、韓国語はやっぱり日本語に近いからなんじゃないかと思う。ヨーロッパの人が隣の国の言葉をしゃべる人と自分の国の言葉でそのまま会話することが可能だったり、アフリカの人が何十という近隣の言葉が話せる感じ、というのは、こういう感覚なんじゃないか。
なんか「わかりそう」な感じなのだ。(それにしても、言葉ってなんで違うんだろう。まあ、それぞれの人の趣味嗜好が違うのと、根っこはいっしょなのかも)
ヒッポは今21カ国語のCDがあるが、最初は英語だけ、次にスペイン語、その次が韓国語だった。それは、「多言語」ってことを考えるのに、とても重要なことだったんじゃないか、とちょっとずつ体感しているこのごろ。
多言語についてのいろんなことが聞こえてくるヒッポの場。
私はまだ会っていないのだが、確か小学生まで日本でその後中国で育ち、大学で日本語を勉強したS君。彼は日本人と同じように完璧な日本語を話すが、考える時は何語でもないもので考えて、しゃべるとき日本語のモードにして出力する、という。
これぞほんとの多言語人間、すごい、と、中国の留学生のK君が言っていた。
今読んでいる「仏教と脳科学」(アルボムッレ・スマナサーラ、有田秀穂 著)。ものすごくエキサイティングな会話がなされてるんだけれど、以下少々長いですが、322ページから引用(この本の本筋とは少し距離がある部分かも、ですが)。
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スマナサーラ 私はみんなに言うのです。「もっと早く頭を働かせたいならば、言葉を捨ててください」と。私も考えている時には、できる限り言葉を使わないように努力しています。先に言葉なしに考えてから、言葉を後から入れるのです。しかし、いつもうまくいくわけではありません。アイディアはあっても、言葉が出てこないこともあります。
仏教の概念は難しいのです。大変高度なレベルの日本語能力がないと、日本語で説明することはできません。私の場合は、日本語の能力は決まって弱いのです。語彙力がないのです。では、どのように説法するのでしょうか。それにはプロセスがあります。
自分の母国語さえ使わず、まず言いたいことを考えるのです。それから、どの順番で言うべきか、整理してみます。次に、私が持っている日本語という小さな皿に載せてみます。それが言語化するプロセスです。それからしゃべります。
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スリランカ出身のお坊さんのスマナサーラさんはこのように言っている。
一瞬、言葉を使わないで考えるってどういうこと、と思うが、製本で工程を考える時はいつもそうだな。使ってる言葉は「こうやって、こうやって、こう」位。
そう考えていくと、私が製本で学んだことって意外と大事なことだったのでは、と思えた。
そして、3冊製本の著書を作って「言葉にした」ということで、言葉ってどんなもの(この場合、書き言葉、だが)ということを随分味わうことができた。
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