昨日は、ノームチョムスキーさんの講演をボストンまで聞きに行った、メンバーの方々の報告をヒッポ本部に聞きに行った。
思いが熱かった。すばらしかった。
チョムスキーさんの講演の内容は、「自然と言語」の第3章にあることがメインだったとのこと。(私、まだちゃんと読めていない)
「言葉と人間を自然科学する」というのが、ヒッポをはじめた榊原陽さんのかかかげたテーマだが、その榊原さんの初期のころにチョムスキーさんとの交流があったそうだ。そして30年ぶりか40年ぶりかでで榊原さんのこども達というか仲間たちというかであるヒッポのメンバーが、スザンヌフリンさんとの出会いを経て、チョムスキーさんとの再会というのか、出会いの機会を得た、といういきさつが、報告を聞いているとわかってきた。
ちゃんと知識なくしゃべってしまうが、言葉を自然科学しようとした人がチョムスキーさんらしい。言語学を物理学とかのような自然科学としてやってみようということ?ともかく、科学というのは、「こうだ」というためには、実験をして誰が見てもただしいという証明をしたり、していかなければならない。異論を論破していかねばならない。そのためには細部をゆるぎないもので固めていかねばならない。大和田先生の感想は、そうやってずっと闘ってきたのだなチョムスキーは、というものだった、と聞いた。
一方の榊原さんは言語学とたもとを分ち、「ヒッポファミリークラブ」やレックスをやっていった。人間である自分を全うするということは学問で成果をあげる(新たな説の正しさを明らかにする)ということじゃなくて、この、まわりに居る人達といっしょにいかに生きていくか、ということの方に興味が有ったんだと思う。しかも、実践して結果を出す、ということだけでなく、生活の中で実験して観察し、言葉や人間がなんなのかということを、研究していく。今の自然科学よりもっと広いというのか一次元上の枠で、新しい科学みたいのものを考えていたのではないか。
今回、チョムスキーさんに触れた人達は一様に「おだやかなやさしいおじいちゃんで、とてもこちらに好意をもってくれてるのがひしひしと伝わってきた」と話していた。それは多分、チョムスキーさんがずっと昔の知己である榊原さんの学問ではない実践としての今の姿をヒッポを見たからでは、という感想に、それはあながちひいき目だけではないだろう、と
私も感じた。
自分の中にある、言葉の「普遍的構造」。それは自分の語りかけに対して外からの刺激をもらうことによってしか起動しないし、表にあらわれ、理解の対象となることもない。
「学者の研究の結果に何か答えがあるんじゃなく、主婦だったりする普通の一般ピープルとしての自分の中にしかないんだな〜、普段の暮らしの中にしかないんだ」と強く語る、今回ボストンに行った方の一人。うーむ。共感します。
なぜヒッポが「多言語」と口酸っぱく言うのか、少し感じられてきたかも。
「心を開いて」っていうのがどういうことなのか。それは結構むずかしい。
どういうことなのか、も難しいし、実際にそれをするのも難しい。
そして、そんなことを「難しい」な〜んてもっともらしく言ってばかりいないでやりゃーいい。
本来持っているものを認めて、それを発展させていくのが、難しい。
いろいろ邪魔をするものが、ある。その第一が「自分」なんだろう。
すごく抽象的な、話になってしまったが、なぜ「多言語」か、というと、
人間の言葉は一つ(つまり、「言葉」というあるきまりを持ったシステム自体は何語であっても手話であっても全部に共通するもので、それを普遍文法というらしく、その普遍文法はすべての言葉に共通って意味)、
生き物の中で人間のような言葉を持つのは人間だけ、
そして、
「人間」って何なの?って思うとき、言葉を持っている生き物っていうのが
ものすごく大きな特徴で、
そのことを調べたらかなり、人間が何なのかを理解できていくのではと思う。
それで大事だと思う。
で、その普遍文法が生得的か後天的かどっちがあってるのかは、科学的に議論のあるところらしい。
が、普遍文法みたいのを仮定すると、ヒッポの活動に方向性がすごく出る感じがする。
もともと榊原さんはそういうことをわかっていてやってるんだと思うけど、私は、昨日今日にそう思った。
それを意識して多言語を話そうと試みてみよう。まあ、下記のようなメタ活などを、シング&ダンスで身体を動かしてやって行くってことですけど。
ヒッポで「メタ活」と略称されている「メタフィジカルランゲージアクティヴィティー」。具体的に言うと、やってることは多言語(今は21カ国語)のCDをそのまま真似ること。
よく聞くこと。その通りに真似ること。それを「言葉を歌う」と表現してるヒッポ。
なかなかできない。それぞれの言葉に特徴的なリズムとか音があって。
日本語にない音がいっぱい。日本語にないリズムがいっぱい。
いや、青森の言葉だって私の東京弁(勝手に標準語だって思ってるんだけど)違うリズムと音だよね。
なんで、こんなに多様なんだろう、ことばって。それがものすごく不思議。
でも生き物の形を考えても、例えば昆虫ってなんだこんなにいっぱい形や柄が違うの?ものすごく不思議、って思うのに似ているのかも。
文字を学んで文法からアプローチしていくのではなく、
こっちの方からアプローチして行く事ってありだし、
学者ではない普通の人にはそれがいいはずだ。
DNAやら量子力学やらフーリエ変換やらやら、そういうことも「知りたーい、やってみたーい」と行ってしまう、ヒッポ(&トラカレ)。似非科学と思われ、宗教みたいと誤解され、結構苦難の道を歩んでいるところがある。
私もそれらの反応を知ると、不安になる。
だけど、やっぱりここには面白いことがあるし、誰にでも開かれた場があると思う。素人な状態で、科学にアプローチしていいし、素直に知りたいと思ったことを聞いていいし、思ったことを言ってみていいし、聞いてくれる人もいる。身体を使って考えてる感じがする。
直感で「ここはいいところだし、なんかあるよ」って思う。
自分はそうやって自分の直感で生きてきたし。
自分がその一個体である「人間」知るのには、自分を見なけりゃならないし、そのためには反応してくれる人々という環境が必要。そういういい環境に居るように意識するのは自分。
私は半分主夫(半分だから「主」とは言わないか。。。)で、一応製本家として本も出していて(だから肩書きは製本家)で、半端な立ち位置。これってどういう仕組みで機能するのか(機械などもそうだし、本の構造とか、使う道具とか)、自分の身体ってどうしてこういうふうに動くのとか動かないの?(作業の時の刃をどう使うとか、生活中に骨盤を立てるってどういうふうにするのとか)に興味があって、つまり「自分は何か」ってことにずっと興味があって、実はそれしか興味がないのかもしれない。自分から「人間」を知りたいんだな、多分。
そして製本の方では特種なセンスがあるらしく、著書が結構売れたり、センスをほめられたりして、うれしいし、なんと言っても社会の中で居場所が得られたのが本当によかった。(「センス」なんてものはちょっと時間がたったらすぐに飽きられるかもしれないって不安感もある。これからどう活動していくの?て思ってる。)
一方、身体のこと(骨盤おこしとか)とか言葉のこと(ヒッポ)では、相当不器用で、センスない。でもセンスがないってことが、あーでもないこうでもないと苦闘したり考えたりするによいってこともある。だめだからこそやってみてる、みたいなスタンス。
分けたら、「得意で好きなこと」と「上手にできないけどなんか興味あること」の二つでなりたってる自分。「苦手なことをなんとかする」も加えていかないと、ほんとやばい、と思います。
(ああ、長文を書いて確定申告の進行を先延ばししてる自分。早く終わらせて、24日からの韓国ホームステイへむけて気分一新したいです・・・)
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