子供の小学校の朝に時間に読み聞かせのボランティアをしている。
読み聞かせは私の生活の中で意外に重要なものらしい。
読み聞かせ、という言葉はあまり好きではないが、今はそう言うんだな、ということで、大分慣れた。私が子供のころはそういう言い方は無かった。
小学生のころは、毎週土曜日は近所の文庫(土屋文庫)で本を読んでもらっていた。「お話の部屋」とか「お話の時間」とか言ってたように思う。
もちろん両親にも読んでもらった。
声をだして本を読む。読んでもらう。そういうこと。
今学期は、学校おすすめの中から「にんげんになったニクマンジュウ」を2年生に。自分の好みで「プーのゾゾがり」を2年生と3年生に1回ずつ。
夜寝るときや、朝、目覚めた時に子供に本を読んでいて、それは面白い。その面白さのまま、学校でも本を読む。(娘の時は、歌を随分うたったけど、弟は本読みの方が好きで、それも主に朝。。。いずれにせよ、声を出す楽しさに目覚めさせられる。でも、その時期が終わったら、声出さなくなっちゃう。
うちは1人目と2人目は7才のへだたりがあるので、弟に再びその時期が廻ってきた時、すごく自覚的に「この楽しい時期」っていうのを感じた。
声音使う。プーさんどんな声にしようかな、とか。
いずれにせよ、自分が楽しくてやってること。その楽しさの中には、面白がられる、っていうことも大きく含んでいる。
(デザイン科出身者は、基本、ウケ狙い、ですから。いつも相手の顔色うかがってま〜す!)
自分の製本の教室でも、自然と読み聞かせのことを話題にする。
冷静に、淡々と読むのがよい、ということを講演でしゃべっていた、児童文学研究家がいた、と生徒Nさんから聞いた。うーん、そうかな〜〜?と思ったけど、さらに話を聞いてると、それのほうが、子供が自分の頭で想像をする、のだと。まだ納得できなかったけど、その講演者、自分の子が赤点とりそうってピンチの時に、地理だか歴史だかの本を一週間読み聞かせてあげて、ピンチを救ってあげたんだそうな。なんか腑に落ちた。
ある写真家のギャラリートークで、写真についてのどんなキャプションや説明文よりも、すごく、すっと自分に入って来て、やっぱり声で入って来るものってすごいなっていう感想を言った、別の生徒Hさんもいた。本を作ったり、字を書いたりしてる我々って、なんだろうね。文字が発明される前の口頭伝承の時代から失われたものって本当に大きかったろうね、と思わずお互い言い合ってしまった。
そういうことに共感してる私。まあ、それもよし。「本ということ」の向こうにあることが、好きなんだろうね。
そう言いつつも変わらないのは、私は「から」を作る人だってこと。文字自体が「から」なのに、それを入れるさらなる「から」を作る。さらにそのまわりに箱を作ったりして、重症である。
(ずーっと前に「銅像には中身がないよね」って思った。で、中身のあるアートが作ってみたい、と思った。そこらへんをきっかけに作品をつくるようになったような気もする。久しくそういうことをしてない気になっていたけど、また何かを少しずつ作らなくちゃ。)
それはそれとして、教室で何かをちょっとしゃべると生徒の皆さん、本当にいろいろ教えてくれる。まあ本の教室だから、これが面白いとか、本のこともいっぱい。今回は小学低学年への読み聞かせということで、「ピーターラビット全おはなし集」(これ、すごい重厚な丸背ハードカバーで、本当に本らしい本!これ持って、子供の前に座ったらさまになる。)とか、シゲタサヤカさんの本、長新太の「キャベツくん」、などなど教えてもらった。2学期の読み聞かせが楽しみになってきた。
先日は、文字とことばの溝について聞いて頂き、ありがとうございました。文字関係の人には話せない感じの話題で、教室で素直に話せるのは本当にありがたい雰囲気です。
そうか…「から」は大事な気がします。私自身が「から」なのかもしれない…と思いました。だから周りの「からじゃない、中身ある」人に置いてけぼりにされることがあるのかもしれません(笑)。なんとなく納得。
コメントありがとうございます。まあ、何を言っても、人間自体に中身(これは「心」のこと?)はあるのでね、そして体(これが、から、か?)もある。そして、いろいろな表現方法をする人がいるな〜って思う。生き物は身体そのものが表現になっていて、それが多様。人間は一つの種で、各個体の外見も身体も似ているけど、表現が多様な気がする。みんな違ってみんないい。からを作ろうが、中身を作ろうが、表現するという点では同じっていう気持ちで自分のことをやってこう!って思ってます。