昨日は星幸恵さんの展示を見に行く。初日で人もたくさん。何人かの知人にも会えてよかった。
言葉について、深く味わってる感じがする。
カリグラフィーというものが、本来、そういうものなのかもしれないのだが、普段なんとなく、書いてある字の形を味わうのみになってしまってる、と感じた。
星さんは、好きな一まとまりの文を選んで、アルファベットで書いている。(憶えてるのは、須賀敦子さん、多和田葉子さん、ウィリアムブレイク(さん、って付ける?))
ファイストスの円盤もモチーフとしてでてきてる。(音もわからない、意味もわからない、言葉に対して、写すことで接近して味わうことができるということ?)
多和田さんはドイツに住んで、ドイツ語で表現している物書きの方だったと思う(私、読んでないからなんともわからないが)。境界線の住人でありたい、みたいな一節があって、ドイツ語でしか表現できないものがあるということを言っていたと思う。
星さんがアルファベットで書いているのも、そういう境界の感覚を味わいたいからなのかもしれない、と思った。母語ではないが、感覚を知っている言葉を、その文字を書くことで、味わって、形で表現するということなのかな。
星さんのカリグラフィーを森田千晶さんが漉いた、楮の紙。すてきです。
藍でほのかに染めた紙の原料を、型を使って漉き込んでいる、とのこと。(他にも透かしの技法でやったものとか、すてきなのがいっぱい。)
そのあと、毎週のヒッポのファミリーに行って、仙台の方言で「いずい」とか、高知の方言で「ほこってる」っていうのがある、と聞いた。翻訳不能な言葉だという。その感覚、ニュアンスは、置き換えが不能。でも、目の前で下着の袖が上着の袖の中で奥にしわしわに押し込まれて出てこさせられない、みたいなのを見せてもらって、例えばこれが「いずい」よ、と言われると、ああ、ってわかる。
方言と同じく、多言語は同じ人間ワールドに、それぞれ違う感覚の網をかぶせてるから、違う網で世界をみたら、すごく新鮮なんじゃあないか!って思った。
アラビア語の感覚で世界を感じてみたい、って同じファミリーのハナちゃんが言った。
それぞれの言葉は、波(リズム、音の感じ)が違う。この意味を言うときって、こんな感じの音や波の感じ、っていうところから、しゃべる言葉は発生してるはずだと思う。(その音や波の雰囲気を自然にデザインしたのが文字だろう。)
とかいうと、なんだか「詩的」な感じがしてきてしまうが、基本となるのは「論理」を伝えるのが言葉。まあ、人と人がうまくやっていく時、詩(ニュアンス的なものをこう言ってみた)も論理も両方必要だと思う。
星さんの展示で、久々に会った、彌永たたえさんが、うちの義父は日本語と相性が悪かった、って言った。
水が煮えたからお茶を食べよう、みたいにしゃべった、という。変だけど、誤解をされることは無かった、って。
さすが数学者、そんなふうに言葉を使ってたんだ、と思った。それも一つのやり方だ。
水もお湯も状況が変わっただけで同じものでしょ、ってことか。飲む、も、食べるも、体内に取り入れる、ということ。
まず、しゃべる冒頭で、はい、なのか、いいえ、なのかを言っていた、とも。
でもやっぱり「うーん」とか「どうなんだろうね〜」とかそういうふうに、あいまいに言い出したいわよね、とも、たたえさんは言った。
星さん、たたえさんから、ヒッポで(あなたや子供の)日本語がどう変わった?って聞かれた。
うーむ、どうなんだ。話を聞いてもらえる場があるので、自分の気持ちや説明を言えるようになってきてる、とは答えたが、それだけではない気持ちがある。
スワヒリ語のCDの、普段あまり聞いてないところを真似して言ってみると、言葉全体の波みたいのが味わい深い。
違う世界を、違う感覚の網の目で味わってみたいのか。
帰宅後のお風呂で、5年生で台湾にホームステイに行くことにしている小2の息子が、「台湾に行った時に困らないように、できることを今やっておく」って言ったのにおどろいた。
ヒッポのファミリーで、大騒ぎで友達と駆け回って遊んじゃって、CDを一緒に真似したり、ということをなかなかやらない息子。
今朝は、CDをかけて一緒に台湾語の一節を真似してみたよ。楽しかった。毎日やろう!
お久し振りです
彌永先生が日本語と相性がよくなかったという話とても頷けます 授業の板書は何時も英語でしたし(でもフランス語の方が多分書き易かったのではないかと) 日本語よりもフランス語や英語の方がはっきりしていました
先生の書かれた漢字は数学会に入るときに戴いたサインだけかもしれません