29日金曜はトラカレ講座の最終日、山崎和夫先生と坂東昌子先生、ともに京都大学の湯川秀樹研究室出身の理論物理学者。山崎先生の授業は、実際に紙の上に計算してみて味わう「数の楽しさ」みたいのを教えてくれた。カプレカ数だとか、循環小数になる分数とか、数って不思議だなと。坂東先生は、漫才のような歯切れのよい関西弁で、ヒッグス粒子のことや他の素粒子のこと、また磁石のことなどを教えてくださった。ヒッグス粒子は、うーん、やはりわからない。空気のようだった空間を、水のように変えて、そこを通る時に、抵抗を作るような働きをする、という説明は、感覚的にはわかった。
数学がわかると、そういったことがもっと単純に把握理解できるらしい。その感じは、小学生の時に「なになに算」としてややこしく習ったことが、な〜んだ「x」を使えば、全然簡単じゃーん、って中学で思う、そんな感じ、と例えられていた。その感じはわかる。
坂東先生は、原発事故後、放射能の人体に与える影響をはっきりさせるための研究もされているそうだ。「科学的に理解する」というのがどういうことなのか、ちゃんと理解していない自分にとって、原発の事故と放射能の我々への影響が「風評」ということばなどであいまいになるのが不安。(「科学的」なのか「論理的」なのか、すらよくわかっていない自分。こんなんでは何についても簡単にだまされちゃうな、と不安。煎じ詰めれば、もっと自律して生きないとだめってことなんだろう。)
それぞれの人々ののっぴきならない都合はそれとして、科学(者)には客観的な見解を見せてもらいたいです。
そのあと、森美術館に会田誠展を見に行ってみた。なんだかすごいな〜って思った。そこにあった絵とか表現は、何かを言うための道具立てであるという面が強い。コンセプチュアルってこと?と思いながら見る。が、明らかに何かに対して批判してるととれるものもあるけれど、そうじゃなくて単に「俺はこれが気になってるんだよ」っていうことも、ともかく「描いてしまう」という勇気を感じた。(再現戦争画、で、「郁夫」ってサインをでかでかと描いてるとか、リミッターを切ることでできることしか意味をもった表現になんないよ、って言ってくる絵に、こっちはビビる。)言葉で言えることと、絵で言えることはちがうのだから。そして描いて考えたり、味わったりしてるんだろう、きっと、彼は。
絵などのキャプションにある「美術は本質ではなく表層を扱うものとさとった」というようないくつかの言葉が印象に残った。
もし「絵」がなければ、その言葉も印象に残らないわけで、絵そのものじゃない「言葉」が絵によって生きてくるのが面白かった。
そのあとで52階の展望台から見た夜景は、爆発的に膨張発展してしまった巨大な生き物の部分のようで(「がん」的?)、特に白と赤の車のライトの列が太い血管のようで、逃げ出したくなる感があった。しかし、この都市で生きてるんだな、私、と思った。六本木からは、走って帰った。途中代々木公園で桜をみたり、花見をみたり。うちの子供達も祖父母と出かけて居ないので、ゆっくりと。
コメントする