2014年12月 8日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
個展は、無事、先週の月曜日に終了した。
かなりぎりぎりまで新ネタを、と力んでいたのだが、ふと考えると今回は演奏とセットのコラボレーション企画。無理して新しいものを出さず、昨年の個展で並べた楽譜挟みに、楽譜挟みの新作数点と、コラボ相手のマイコ・ミュラーさんにオーダーメイドで作ったもの数点を加えたラインナップとした。
去年の個展は地下で外光の入らない環境だったが、今回は大きな窓が2カ所にある自然な環境で、楽譜挟みは昼と夜、晴れと雨でいろいろに違って見えて、なかなかよかった。 去年の作品が半分以上であるにも関わらず、悪い気はしなくて作品の見え方もよくなっていた。これは自分の気持ちが変わったためなのか?(数作、買っていただいた、ということも大きい。。。本当に、ありがとうございます。)
さて、個展会期中に別の作品を作っていた。2日から始まった「アンデルセンの15冊の小さな本」展のためのオブジェ。アンデルセン自身の作った切り絵をスキャンしてレーザーカッターで切り抜いたもの、と、木の棒を吊るした、いわゆるモビールに分類できるのかな。個展の来客が途絶えた時などに、床にパーツを広げて糸を付けたりして、なんとか日曜日の夜に搬入した。かなり気に入ったものができた。鳴る木と切り絵を合わせて、ナルキリエ、と命名。
新しい素材との出会い、新しい組み合わせの発見、その中に詩的なものを見つけ出すこと、などに強い喜びがある。それとともに、自分は空間的に表現したいのだな、とモビールを作って感じた。自分は本の中に空間を感じている、あるいは本の中に空間がある、という感じが好き。今回も個展に並べた、15年前の作品「空の鳥」を見てもそう思う。本は、時間と空間のゲシュタルト(とヒッポの榊原さんの言葉を引用)、開いたり閉じたり(時間に開いたり=読む、空間に閉じたり=書く)するもの。そこに造形的な現実の空間を加えてみたいという、作り手としての欲望。
とともに思うのは、レーザーカッターという私にとっては新しい道具によって、引用が容易になったり、考えた形が手の技術と関係なく実現できるようになったということ。(いつも作業を手伝ってもらってる津村さんにデータ作りをたよりきってるんだね。。。。)アンデルセンの切り絵をそのまま引用し、吊るす部分は直径44センチのベニヤのドーナツ型に36等分の切り込みを入れ、そこに糸を吊るした。レーザーで図面をそのまま切れることで、左右のバランスをとるのがものすごく簡単。
既存の素材を利用することで、自分のもったイメージや完成度を数倍も効果的に、意図外な効果までも含んで、伝えることができる。アルミパンチングボードやユニバーサル基板の正確な工業製品的雰囲気はすごく私を助けてくれる。
たとえとか、引用とか、見立て、見なし、暗喩、換喩、比喩。 物の使い方が、詩の言葉の使い方に似ているような気がする。普通でない言葉っていうのはあまりない。いやあるとしても伝わらないものになってしまうだけ。使い方、関係性の普通でない付け方をした時に、言葉が「詩」になると思う。それを、物を使ってやりたいのが私の作品群。
自分の表現は「本」に嵌り切るものではない。文章を書く=文で表現することではない。製本というものでもない、ブックアートでもない。自分はこのなんかふわっとした空間だか、空気だか、雲だか、風の流れだか、みたいな好きなことを、見立てとか例えとかを駆使して、表したい。そういうことがうまく(物で)言えることにくらくらするくらい憧れてる。スイートな気持ちになって我を忘れる。このところ、こんなふうに作ることに素直な喜びを感じるところまで、つきものが落ちたのだ。
「本」という枠に縛られて、息苦しかった。そんな枠、気にすることはなかったのだ。本という仕組みが好きなんだが、その中で何かをやることが好きなのではなく、あり方が好きだったのだ。 全然本じゃないもの=モビール、を真剣に作ったら、ものすごく解放された。 そして、それは、物を使って詩をうたうようなことではないか、と感じた。 いつも内心「詩がなくっちゃね」なんて思ってるんだ。口に出すのははずかしいから言ってないけど。 物で歌う。物の使い方が言語的。 興奮さめやらぬから、ことばの使い方が感覚的すぎて、これでは説明できてないかも、と思うが、こういう表出もさせてあげよう、自分に。
素材の森を渉猟していると必ず思わぬ出会いがあり、それを媒介として、自分の気持ちを表現できる。アオアズマヤドリが、ブルーの物を集めて巣を作るように。そういうほとんど本能的よろこびを、上記のような手段で感じるのだ。 というわけで自分の表現は、変わって来てると思う。 きれいなものを見つけたことを、詩的に表して、人を喜ばせたい。それだけ。 たいそうな意味もコンセプトもなく、しかし、詩。で、アートにも工芸にも反抗的、だったらかっこいいなぁ、と思う。
以上かなり照れる表出。なのだが、夏にアメリカに行って自作のプレゼンテーションをした時、作品を見せるより前に、「まず、あなたが何によってたってるのか、作品を作る根底にあるのは何か」のようなことを語ることを求められた。えっ?って感じだったのだが、そんなことだったらいくらでも言えるような気がしたのだ。それ言っちゃっていいの?っていう感じで。(日本だったらまずなにはさておき、物をみるでしょ。)
だけど、今「照れる」って思うのは、日本モードに入ってるからなんだ。そこいらへん今の日本の息苦しさが少しある。日本がいけないっていうんじゃなく、深くこの自分の中にある日本というありかた、が息苦しいのだから、それを少しでもぶちこわさなくちゃいけないんだ。なんかこの「言ってはいけない」と自分で自分を規制するみたいなモードになってしまう。 というわけで、まあ、勇気をもって、表出。
肩書きを「製本アーティスト」にして少しぶちこわしな雰囲気を出したつもりなのだが、もっと何でもない、つまり分類不能なものも作りたいなぁ。
と言いつつ、次は、来年12月の個展。どうぞお楽しみに!
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