2015年12月 5日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
今回の個展、時間のない中で作品を作って、自分の中のちいさなささやき、っていうか、感覚、があるの。
それが、ちらっ、て、この紙はどう?って言ってくる。言ってくるというより、あれっ?今なんか感じた?みたいな感じか。それを無視しないで、いうことを聞く。え? あ、そう、これなんだ。これなんだね、と。そうしたらもう出来てる。あとは微調整するだけ。コラージュだと、このこと全開でとてもわかりやすいけど、ほかのことでもそう。「洗濯」とか「手紙だし」とか、ちらっと言ってくる。いつまでにこれをやりましょうっていうのもむろんあるけど、むしろそれを自動操縦でこなしていく感覚。できない、やりおわらない、ことも含めて、自分の流れに身をまかす。すごいな、って思う。どうやって終わったのかわからないけど終わる、みたいな感じ。自分の中に、ことばを知らないちいさな子がいて、その子が何かを伝えたいんだけど、ことばでは伝えられないからなんか無言で感覚を送ってくるの。今までもずっとそういう感じで作っていたんだな、って思うのだけれど、いろんなものが邪魔をするので苦しい。つまり止められるから動かすのも大変、っていう、ブレーキふみながらアクセルふかす状態。「ちいさなしゃべらない子」がいることを感じられるようになったのは、多分、時間がなくなって、ブレーキしてたらとても着かないぞって「みんな」がわかったんだな。これが「やりたいようにやる」ってことなんだね。
全然ことば優位じゃない自分になってくる。
おととい、上のようなことを書いた。これは、やってる内容による。今回の作品は、コラージュ的なものと、決まった正方形と円を配置する、というもの。やることは配置だけ。そうなると上のようなことがとても顕著になる。前回のように、ちゃんと植物のデザインを自分で描く場合、ここまで単純化されないし、線を描くのに時間がかかる。
それにしても、さらに想像をめぐらせると、古武術の人が言っていた、センサーモードの話を思い出した。太極拳だと聴経(て言ったかな)。感触を味わうには力が入ってるとわからない、つまり攻撃モード(あるいは防御モードでも同じ?)だとわからない、耳を澄ませてる感じになってないとだめ。感触を味わうにはセンサーモードになってないと。私、すこし力が抜けたからそれで、「ちいさないしゃべらない子」の言ってることがわかったんではないか。「止めてるもの」がもっとなくなったら、もっとよく「この子」のことがわかるような気がする。そうしたら野生の動物と同じなんだ、きっと。(数年前にお酒をやめたのも、この子のいうこと聞いた、とも言えるのではないか。)
そして、背広を着たり、制服を着たりするのは、センサーモードにさせないため。ギュッと服で抑えられると、それに対抗して体に力が入って、感覚が弱くなる。感覚が鈍くなってる方が当座は楽。しかし、実はその状態というのは常に「ブレーキを踏みながらアクセルをふかす」っていう状態で、とても体(と心)に負荷がかかってる。そしてそれをまるで自覚できない。蓄積した疲労は、ある日癌とかうつ病とかになって本人を襲う。っていうことなんじゃないかな~ってすごく思った。
それで、今日は銀座から走って帰るとき、足が地面に触る触り心地に注意を払うようにした。はっきりはしないが、いつもより負荷が少なく、楽に走れたように思う。(足の指をちょっと痛めていたので、久々のちょい長の距離)
個展のことにもどると、準備、毎回同様追い詰められてるんだけど、ちょっと気持ちには余裕があった。毎週のヒッポファミリーもあまり欠席せずに行った。搬入終了後にも行って、その結果、展示物の説明書いて初日前夜完徹。しかし初日眠くならず。どこかで疲労蓄積が出る、のではあると思うが、この場はしのげる、って体がOKサインを出してるんだと思う。オンラインのファシリテーション講座も意を決して受けることにしてしまったり。「やりたいな、やれるな」って思ったことは単純に「やる」としてみたら、逆に気持ちに余裕ができた。どんどんやりたいことを予定していったら逆に余裕が生まれるんだね。不要のブレーキを解除していけば意外にもっといろいろができるのではないか。(体のブレーキはかかったままの股関節の可動域。ああ。まあ、まずはブレーキの自覚からだ。)
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