2015年12月 9日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
異なったコンテクスト(=背景=文脈、なんていう意味らしい。平田オリザさんの本を読んでいる時に出てきた言葉で、個展前の最後のレッスンの生徒さんから、この言葉がでてきて、それによって、個展でのキャプションで、作品を表現をするための言葉が起動した。)
ぼくの作っているもの。
アートでも、工芸でもないが、そのどちらにも似ている。
もちろん、量産されるプロダクトにも似ているが、似て非なるもの。去年、肩書きを製本アーティストにしてみたけれど、「ニセ製本アーティスト」にしてみようかな。(自意識過剰は全くアーティストそのものなんじゃないの。なのになぜアートじゃないって思うの?それは誰かに言われないと作れないからかな。製本でうまくいったのも、人から頼まれて作るから。オーダーしてくれる人や教室の生徒さんの要求があってはじめて起動するタイプなのです。じゃ、デザイナー?そう、それっぽい。スターデザイナー、ね。人から頼まれたら、自分のやりたいことをやってしまう。そう、スターデザイナーが一番近いかもね。デザイン科出身だしな)。ニセアカシアの白い花はなつかしく美しいなあと思うと、「ニセ」も悪かないと思うんだ。(加えて、またの名をハリエンジュという。エンジュにも似てるんだけど、トゲがある。。。。トゲがある、って、いいな)それに「ニセ」なのは事実。
「ニセ」っていいな。本物があるから存在していて、それだけでは存在しないもの。関係性の中でだけある、もの。本物の影、本物にたいしての影。いつも「これじゃない」ものになりたかったんだし。あ、えせ、っていう方がよりいいかな。えせ、って似非、って書くんだ。似非、だよね、確かに似非アート、似非工芸。美術館に収蔵されないし。(こんなこと言っていても、組み込まれてアートになったらどうしよう。。取らぬ狸の。。。)
触れるもの、移動できるもの、動かせるもの、姿を変えるもの、が作りたい。
ブリコラージュ。寄せ集め。的。種々雑多なものが流入しまっくっている、現在の東京にぼくは生きてる。
暗渠に愛を感じるのはなぜ?渋谷川は、ぼくの10年先輩達が遊んだ小川が注いでいた。
ぼくの中に密かに流れる美しい小川のような日本は、暗渠となって今もここにある。
洋式の本作りをいろいろ知っていくうちに時として、どうしてか、それを思う。つまり、完全なる西洋文明に(しかも偽物感がわからないくらいによくできた偽物の)、ほぼ完全に覆い尽くされているのだけれども、この地形にはどうしても元の川の流れは必要で、実際ある。そしてそれは隠されているけれども、もしもぼくが動物で、様々の建造物に何のいみを見出すことができないのなら、川がそこにあるのはわけなくわかるに違いない。地形は変えられてないから、川への道を下るなら、行き着くところは「川」だ。川のけはいは、こわくて、そしていいもの、だ。ぼくにとって。
さまざまの文脈、背景、来し方のからまりの末に、今のぼくが居る。
そして、さまざまな素材に触ってきた。さまざまな嗜好を持った生徒さんと話してきた。要求に応じてさまざまな製本のやり方を考えてきた。知らないことをやってみるたびに、さまざまな発見があった。しくみそのものの持っている美しさがいい。いわゆる用の美、かもしれないが、もっともっと瑣末な細部、つまり出来上がりの全体ではなく、「え~、そこ?そこなんだ~。」的な。何か一つの作業をするのにむしろ、いちいち美しいやりかたをしたいんだ。自分では、合理性の美、みたいに思ってるけど、人からみたら単なる嗜好かも。そしてそれは表現にはならない。そういった、「美」がどうでもいいところにとても美意識を持ってしまうのだ。で、しくみLOVE。まあ、マニアックだね。
ぼくはとうとう、誰にも似てない何かに変態しようとしている。
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