2015年12月12日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
火曜は1日、作品の記録写真をFUMIKOU(=上野さん栃木さん)コンビに撮ってもらいつつ、作品を収納する袋を縫うのを津村さんにやってもらいつつ、整理をいろいろとした。
そして、水曜は袋をつけた作品を朝一で画廊に納めてほっとし、安藤康裕さんの展示を見に行った。話し込む。
安藤さんの世界観は、ぼくと共振するものが随分とある。作品を作る時、いかなる理由でそれをやるのかをはっきりさせないと始まらない。と彼は言った。存在意味がないものをぼくも作りたくない。
話込むうち、自分にアイデアがいくつか出てきた。
ぼくは、企画してくださる画廊の寄生虫、という考え。つまりちゃんとした工芸の画廊(しかも銀座のど真ん中)で、私のような半端ものが企画展示してもらえるってどういうことなんだろうって思ったんだ。花粉症の人がサナダムシを体に飼うと、よくなる、っていうことがあるらしい。ぼくはそのサナダムシのようなものではないか、と。宿主を(それほど)害せず、共存し、不利益かとも思わせるが、その実、ひそかに役立っている。というような。思えば、社会に対しても、親に対しても、寄生虫的存在ではないか。経済に貢献しない、すねをかじりつづけてる。でもね、役目もひそかにある、と。ずうずうしくも。そのお役目にうすうすと感ずいて来たので、そこをちょっと開拓してみたい。お役目は何かって?もちろんサナダムシと同じ。正常な自然の中の健康、とでもいうものの推進だ。
安藤さんの展示から出る前、買い物で走る話を例によって。
自分にとって「ものすごくナイスアイデア!」なことも、人からみたら、ふーん、変わってるね~っていうことなんだよな。多分これは前にも書いたけど、例えばハンズに買い物に行ったとして、走って往復すれば、少し時間は余分にかかるけど、電車賃が浮き、わざわざ健康管理のための専用の時間もお金もかけず、体を動かすことができる。(しかも走るのは自分にとってはとっても楽しい。途中いろいろなものを眺めて発見もあるし、アイデアもでるし。電車っていう、窮屈な箱につめられて移動するなんて、楽しくないよ。)例えば、家族が夜中に「あ、牛乳買うの忘れた!」とか言ったとすると、すぐに「あ、買ってくるね!(走れてラッキー!)」みたいな行動になるので、家族にも評判がよくなる。
そう。でもね。誰も真似はしない。ぼくの感じ方はとても少ないタイプらしい。そうなんだ、と思って、これまで「みんなと違う」を喜んでいたけれど、でも、多分、この自然(ったって、サバンナの大自然とか花が綺麗とかエベレストの苛烈な天候とかそういうんじゃなく、自分そのもの)を感じる力が弱くなっちゃってるんじゃないか、って思う。生き物なのに活動するのが面倒っておかしいでしょ。階段があったら自力で登りたいでしょ。でも誰もがエスカレーターを使うでしょ。ぼくからすれば、変なの〜。せっかく階段があるのになんでエスカレーターなわけ?意味わかんない、って思う。(まあ、こういうおかしなことを言えるようになるまでには80キロ近くて動くのが面倒とか息切れするとか、そういう時期があったんだけどね。そこからだんだんからだの声を聞くようになり、1年以上毎朝続けていたゆっくり走りで動くのが楽しくなり、、、と、徐々に。)
今はこんな感じで、どうだっ!っていうくらい生き物として当然な感覚を正常に持ってるって思いませんか。これがこんなにマイナーである世の中は、ちょっとまずいと思う。
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