2015年12月13日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
作品を作る時、方針を決める。学生はいつも、課題をやるとき、「何がいいたいのかをはっきりさせなさい」と指導を受ける。別の言葉でいうと「コンセプトは何?」っていうやつである。あまり疑問ももたず、そういうもの、と思っていた。
去年の夏、アメリカへ行き、そこでの作品の見方、見せ方を知って軽い衝撃を受けた。
作品をみる前に、自分が何によって制作をするのか、その核は何かみたいなことを話すのだ。アーティストが画廊に自分を売り込むときも、まずアーティストステイトメントという自分の一番大事な考えを書いたものを作り、それを送って読んでもらい、面白がられたら初めて作品を見てもらえるそうだ。(興味を持たれなかったら作品は見てもらえない!)
で、プレゼンの場で、ホストのシーラに「?何しゃべればいいの?』って助けを求めると、ああ、私だったらダンスのフィジカルな刺激が作品を作るのに云々かんぬん、みたいなことを言うので、じゃあ、と、太極拳とスロージョギングが云々、というのを拙い英語でしゃべると、みんなが、ンフー、アハー、ともっともらしく頷きながら真剣な面持ちで聞いている。なんか楽しくなっちゃった。ほとんど口から出まかせを言ってるのに。これはコントか?と。
このときにとても大きい気づきがあって、私はコンセプトなしに作品を作っているのがわかり、拠って立つところは何ですか?と言われて真面目に答えようとすると何も言えない。「ああ、日本人は世界で主張する力が弱いんですよ」ってなっちゃうんだけど、どうでもいいことをいくらでも後付けでしゃべればよくって、そうすれば相手がすごく頷くっていうのがわかった。
だから、作品について、あることないこと全部適当にしゃべりまくればいいだけだ、って思ったらなんか、自分が詐欺師?コメディアン?かなにかな気分になってとっても楽しく楽になったんだ。
「まずコンセプト、次作品」っていう考えが、「まず作品、次コンセプトでっちあげ」というふうに完全に逆転した。
この経験から2年以上経った今。今度の個展では、作品の説明をたくさん書いてみた。
作っているときには、体感があるだけで、言葉での考えがあるわけではない。終わったあとに作品を見て、何かを思って、書いてみる。それが楽しかった。作るのが先で、言葉は後。その言葉もできるだけ、野放しっていうか、思うままにさせておく。
想像以上に人はそれぞれ違っていて、私のような感触マニアな人はそうそういないらしいということにこのところうすうすと気づいてきて、私が「萌え!」ってなってるところに共感してもらえる人の割合って果たして1割もいるのかどうなのか。
そこで言葉を使うんだ。言葉をわかる人の率はもっとずっと高い。当たり前だけど、もののことを説明しきることは本当にはできないから、相手に伝わると思えるように書く。これが「あることないことないまぜて適当に」。こんなんインチキじゃんっていう言葉の使いかたこそが伝わる言葉の使いかただっていうのも面白いな~って思う。
さて、「コンセプト」にがんじがらめになってるのが、今の社会だし、学生達。いつも言葉できちんとしたことを言うことを求められて。そしてその抜け殻の言葉からはじめて何かを造形する、なんていうそもそも無理なことを繰り返し、才能ないな、と。自分、つまんないな、と。
言葉、は、共通認識のレベルが低い時、相手との架け橋になるように使うものであって、自分の本当の体感みたいなものとは別。だから、移民の集団で共通認識の低いアメリカのような場所では優位に働き、有効に機能する。だけど、自分の体から出てくる、それでものを作る、みたいなところでは邪魔なだけ。そもそも、美術系の人はやむにやまれぬ「なんかつくりたいな」という欲望を持っている、または隠し持っている人たちで、コンセプトなんか関係なく、まずは手を動かしてものを作るのがいいんだ。(そしてそのものの中には必ずコンセプトがあるのだ。)そしてできたものを社会につなげるように、あるいは自分の言葉の世界にアプローチするために説明する、という言葉の後だしのトレーニングがすごく必要だと思う。
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