先週から、うちにSheila Asatoさんがステーしていて、もう、たーくさんのことをしゃべるしゃべるしゃべる。
全部が面白い。
面白いことをサーフィンしてしまう感じなので、どこまでもどこまでも、合いの手を入れて聴いてる方としては、流れてしまってとりとめもなくなる。
印象に残していることを一つ。去年、Sheilaからオススメされて買ってみた本「脳の右側で描け」の中に、こんなことが!っていう話題がある。ピカソが描いたカンディンスキーの線描の肖像画が課題で、それを模写する。デッサンが苦手な人がそれにチャレンジするのだが、普通にやってもらうと、全く似ていない「子供の描いた絵」みたいになっちゃう。それが、元の絵を天地逆にひっくり返して線を忠実に写してくださいと言って模写してもらうと、かなり元の絵にそっくりなものになるのだ。うちの教室の生徒さんにも、この本のドリルを実践して、まさにそうだったという体験を語ってくれた人がいた。どういうことかというと、絵が苦手な人は、これは目だ、これは耳、というふうに言葉で解釈して、目や耳を概念的に描いてしまうらしい。美術が得意な人は自然に(これは耳、とかじゃなく)形そのものを見てしまうのだが、苦手な人は違う認識をするのだ。
言葉で世界をみている人と、形で世界をみている人は、そんなに違う世界に生きてるということになる。そして普段はそのことがお互いには意識できないことにおどろく。普通に絵をかける人にとって、「目」って解釈してからそれを描くってどういうこと?ってわからないもの。
Sheilaは、アートを学んだあと、夢に非常に興味を持たざるを得ない状況になり、ユングの流れの心理学も学んで(というと簡単に書けてしまうのだが、実にいろいろあって、ちょっとやそっとでは言い尽くせないいきさつやらなにやらがある。。)両側の人のことがわかるから、双方の橋渡しをする資格は十分だ。それでもアート出身だと低くみられる、と言っていた。でも発表すればしたで、そんなふうに考えたことはいままでなかった、という学者たちからの反応が得られ、賞も貰ったらしい。
さて、である。
かつて、勉強がつまらない、と思う感じはもしかしたら、こういうことに核心があったのかもしれない。
自分がいいな〜って思うことを言ってみても(っていうより作ったものを見せてみることが多いかな)ある場ではさっぱりのれんに腕押し的感触。
そういう経験を積む内に、何をいいと思っているかは本当に人それぞれだな、というのを強く思うようになった。
細かいレベルでそういうことは実感していたが、学者とアーティストっていう大きいくくりでもそんなにコミュニケーションギャップがあるんだな、というのが、心理学のコラージュ療法(療法、と言ったかどうか忘れたけど、被験者の作ったコラージュ、夢、書いてもらった文、という3種を比較して分析する)を語るSheilaの話を聞いて思ったこと。
作ったものを見ると、この人は、私から見たらどこをみてるのかな、ってなんとなく感じ取れる。Sheilaは(というか多分多くの絵描きさんや平面系のデザイナーは)平面に近い形を見ることにすぐれていて、私から見るととても知的だ。私は、もっともっと感触的世界を見てる(目でもだけど、手で)と感じる。
こんなことは最近になって意識しだしたことだ。手で感じて作るのは私にとっては当たり前で意識すらしてなかったが、希少種らしい。そういいつつ、夢のフィールドとか体の深部感覚とか、動いているダンスにおける感覚とか、音の世界とか、私の知らない感覚世界が膨大に広がっているな〜って感じる。世界って広いな〜。
追記:
ずいぶん前に「脳の右側で描け」のドリルを私も始めてみたはみたのだが、やっぱりデッサンはあまり好きでない。40時間(だったかな)のプログラムをやる前とやった後の絵が載っているのだが、やる前の絵の方が好きかな、という感じもある。世界を四角く切り取るのも得意じゃない。もうね、全部が四角でしょ、今の世界って。パソコンの画面も、広告のチラシだって、絵を描くのだって、映画だって。(。。。。。その枠が嫌だ。。。。。。)
季節の花、クチナシ。この木だけ、なぜか花弁7枚の花が多い。
コラージュ療法、は日本で独自に発達したもののようだ。Sheilaの指摘によれば、西洋の人は形に敏感で、日本の人は場所に敏感とのこと。例えば、本がコラージュされていたとして、西洋の人は本の意味に注目するが、日本の人は本が画面の中でどこに置かれているかによってその意味が変わることをキャッチできる、とのこと。
ご無沙汰してます。山崎さんのブログはやさしい感じがして良いです。
僕はこんな風に書けない。ちょっと羨ましいです。
絵を描くのは子供の頃から苦手だったんですが、20年ほど前に一度社会人向け絵画教室に少しの期間通いました。
扇を持っている人物のデッサンをやった時に、扇の曲線部がどうしても円弧になってしまって妙に不自然に見えてしまう。プラトンのイデアじゃないけど頭にある概念が優先してしまうようです。教室の先生や友人には理系の精神が現れているみたいな事を言われたんですが、見たものを頭の中で一度これは円弧だみたいに概念に変換してそれを紙の上に表出してしまったのかも。
こういう物事の受け取り方は確かにユングのタイプ論っぽいですね。
つくばより様
山崎です。書き込み、ありがとうございます。見たものがどう処理されて出てくるのか、とても面白く興味深いです。西洋風のデッサンだと、消失点が一つの線遠近法(だったかな?)での製図を、作図なしでやるということだと友人に教えてもらいました。
で、円はやっぱり円。自然な形に書くのは結構練習が要りますね。
私は、ユングのタイプ論はよく知らないです。Sheilaはすぐにわかるのだと思いますが。私は、ユングの本は若いときに「元型論」とか「ヨブへの答」とかなんかUFOについて書いたものとか何冊か読んだのですが、すっかり忘れました。
Sheilaには、勉強する動機がいろいろとあるのですが、私はそうではないので、勉強からはどんどん離れているような感じです。Sheilaは、アートで表現するだけでなく、アートで研究をし言語で表出する、というすごい離れ業ができる人だと思います。これはよほどのことです。それだけ、人に伝えなければならない、という強い動機があるのです。