友人の杉岡一樹さんが「時」についてのゲーム「時の祭壇」を作った。その、象徴的なマークが盾と矛を表す、円と直線の矢印。
もう一人の友人のSheila Asatoさんは異文化対応トレーニングの時、4つの要素に着目する、と言った。その中の一つに時間をどう捉えるかが文化によってとても違うということがあり、円環的なのと直線的なのと、いくつもの時間が混在するというタイプが、ある、というようなことだったと思う。
昨日は自分の「手で作る本の教室」で、生徒さんと、そんな話になって、その説明に、アメリカの人は直線的時間を生きている文化で、目的を設定してそこに向かって計画的にすすんでいく。たとえばメキシコの人は円環的時間を生きてる文化で、作物を育てるみたいに、時期がきたら種を蒔き、時期がきたら刈り取る、とするが、それは、そうなったら動くという態度。みたいなことをしーらと杉岡さんの説明をまぜて言った。
そうして、自分の教室のことを考えると、ずいぶんと直線的な時間から遠い。何かわからないが妄想したものを作りはじめるが、やったことのないことだから、ちゃんと計画をたてることもできない。途中思ってない失敗や思いつきがあって当初の方向性が変わることも結構多い。いつ終わるか確約できない。そもそも、4月はじまりで半期とか1年とかいうやりかたじゃなくて、いつはじめてもいいし、いつ終わってもいい、といういいかげんな受講スタイル。そんな状態でいながら、はじめた作業はそれなりに着地というか仕上がっていくし、3年に一度の教室展にはちゃんと100点以上の作品が並ぶ。逆にどこかに着けばいい、という感じだからどこにも着かない、ということはあり得ない、ということか。中には足掛け3年とか足掛け4年とかの作品もある。
そうやって思い起こしていくと、実にいろいろなことが、割り切れていく感じがある。
予備校生の時、時間内に作品を塗り終わるのが困難だった。終点をきめて、割り振って、たどり着くという計画性のトレーニングに適性が低い。
おなじく、平面構成の課題。きちんと画面を分割し、単色でベタ塗りしてバランスをとるのが、これまた苦手。ぼかしを入れたりすれば、かろうじてバランスをとることができる。
就職したあと。簡単な小さな広告のレイアウト、まだMac以前の環境で色の予想ができず、色校が出ると、そのボロボロさは目を覆いたくなる感じだった。平面構成できないのだから当然の結末。このことで、デザイナーを断念し、もっと手元ですぐに結果が見えそれに対して自分でフィードバックする、という手作りのものづくりを目指すこととなる。
というふうに考えてみると、私の「手で作る本の教室」は、生き物のように勝手に成長した感じがある。どう育つか予測できなかったけど、目の前にある課題(つまり、生徒さんの妄想をどう形にするかを毎度毎度一緒に考えてみる)をただやって、今になった。どうなりたい、という具体的目標はないから、まあみんなが楽しければそれでいいし、みんなの妄想だけが頼り。
そして、オーダーで受ける注文も、グレードの設定とか見積もりが困難。思いついたやりたいことをやっちゃうから、いくらかかるのか予想が困難。それでもなんとなく見積もってなんとなくやってはいるけれど。(お金のことに苦手意識がある。予算をたててちゃんと遂行する、というのが無理。非常にだらしない、改善すべき、と思うけど、それだけでもない感じがする。上のSheilaの例で、メキシコの人がなまけものとかアメリカの人から思われがちなんだけど、そうではなくて、時間に対する文化の違い、なんだと。私のお金の文化も、そういった違いも含んでいるんではないだろうか。)
(製本の作業の進め方も、プラモデルのような組み立てはできない。最初に材料を全部切っておいて組み立てる、というのは製本になじまない。組み立てていくと、次に必要なサイズがはじめてわかるので、あらかじめ予想はできないのだ。)
写真は、先月、杉岡さんとうちの生徒さんたちと、「時の祭壇」の試遊会をした時。夜もふけて、生徒さんたち帰り、いつも仕事を手伝ってもらってる津村明子さんとうちの妻と子と杉岡さんがゲームに興じているところ。
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