つながりがあるんだけど、それをうまく言えないところに、切り込んでいく。
なんとかそれを言い表そうとする。
そういうことは、とてももやもやするんだけど、楽しいことだ。
今日はヒッポのファミリーで、これから言語学でUCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)の大学院に留学する子の話を聞いた。ヒッポでの実践で、多言語人間が多言語を使うその感じはわかるし、ヒッポの中では共感してもらえるけれど、通常の学問、研究の世界でそれを表現、研究してもっと多くの人に伝わる形をとらせたいゆえの留学、というような志を聞いた。ヒッポは40年近く続いている活動だけれど、彼女のようにヒッポネイティヴ(生まれた時からヒッポの環境にいた子)がどんどん大人になっていったり、榊原さんとチョムスキーさんのスザンヌ・フーリン先生を通した30年(位だったかな?)ぶりの再開があったりして、まさに今、そんな環境が生まれているということに感動する。
ひるがえって、自分。多言語人間のとらわれない心のありかたには、すごく共感する。何語でしゃべってもいい、そしてそれぞれの言葉の微妙なぴったりくるニュアンを使って、通じ合える感じが、すごく居心地がいい、という話があった。例えば、日本語で「大丈夫」っていったら全然大丈夫じゃないかもだし、韓国語で「ケンチャナヨ」だったら、ああ、本当に大丈夫なんだな、だし、タイ語で「マイペンラーイ」だったら、もうぜ〜んぜん大丈夫、みたいなそういうニュアンス。って話がでていて、ちゃんと掴んでない私にも、なんか、わかった。方言には、それでしか言えないニュアンスがあるっていうのと同じ。
自分が、ずっとうまく言えていないこと。言いたくて言おうとするけどうまく言えないこと。
一つは、自分がやっている「本」のこと。それがどういうことなのか、いつも伝えようとしながら言い切れない。
そしてもう一つは、その「本」のことをやっている「自分」とヒッポとの関係。
私は、私の感覚的なやり方でしか表現できない(学問の言葉でしゃべるのは想像もつかない)けれど、こういうブログのような言葉や、今学習中の動画を交えたりしながら、言えたらいいな、と思う。
枠や型が決まってないところで、踊ってみたい。
向いているメディアを自由に乗り換えて、ミックスしながらやってみたい。
などと書いて自分を鼓舞してる。今、このブログを書くよりすることあるでしょ、という状態なのだがあえて。
動画の課題で、ヒッポと自分のことを何か形にしてみたい。つまり自己紹介であり、かつ、ヒッポ紹介でもある、もの。
そして「本の美術」について、わかりやすく書いてみたい。「本」って面白いものなのだけれど、限定すると自分のやってることすら全部は入らなくなるし、ちゃんと全体を表現してみようとするとあまりの範囲の広さになんとなく茫漠とする。どこか2つ3つに限定して書いてみようとすると、なんだか偏見の塊みたいになっちゃうし。
写真は、モンステラ・デリシオウサ。去年の10月だったかに花が咲いて、いつ実が熟れるんだろうと思っていたが、ついに、実の穂が柄から曲がって、はぜてきました。下の写真の白い粒二つ、味見をすると、パイナップル風の味。ちゃんと甘酸っぱい。
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