オンライン動画講座で「ヒッポと自分」とか「ヒッポはなあに?ぼくはなあに?」というような動画をまとめてみよう!と野望を持ったが、言葉ばかりが出てきて、うまくいかず。「動画」はまだ自分の中にない表現で、まだまだ遠くに感じている。
が、動画を作るつもりでいろいろでてきてしまったこと、以下、まだうまく組み立てられてないことを、感覚的に書いてみた。とりあえず「製本アーティスト」としての自分のことは、以下の中にはまだでてこない。ただ、音楽にど素人(できないものに憧れる)なのに、急にインプロヴィゼーションから始まるのは、教室でみんなと何かを作ってるって、結構「即興的」だと感じていて、そのことは普通の製本というものの展開とは違ってるな、とは思っているので。
たぶん、こんな文の書き方で、うまく行く時は、論理的にもまとまったものが吐き出されるのだろうと思う。しかし、今回はそうなっていない。だが出したい。こういうことがどのようなことを招くのか、よくわからないけど、実験。おしゃべりのように書いている。
これを繰り返して、いつか調子のいい時に、まとまったものができる、はず。
それと、「素人」が、「なんの裏付けもなく」、「感覚的に」、書いて行った時に、みんなはどう思うのかな、と思う。(まあ、要するに、こんなふうにしか、書くことができない、ということで、それはそれでいいことだと思うようになってきた。)
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インプロヴィゼーションは、多言語が分かる、と同じ。
特別なことじゃない。(おしゃべりは、テーマすらない、即興そのものではないか。)
特別な、難しい境地?のように思われるのは、論理優位に世界が整備され終わったからだ。
文字による、世界の把握。その伸展、進展は「数」によってより高度化した。予測、シミュレーションということも、数の言葉の発展であるコンピュータによって生まれ、高められ、占いよりも信じられるようになった(毎日は、ある程度規則正しい繰り返しで、概ね予測できることだと)。人間は、言葉によって世界を把握、というより作っている、生き物だ。人間の自然は言葉とともにある。
歌う言葉=話し言葉、は、文字以前からある。これはインプロヴィゼーションと同じこと。即興の演奏は瞬時に伝わって理解(?)される。
落ち着いて、耳を澄まして、しばらくそこで暮らしていれば、言葉は自然に伝わるようになる。
『脳の右側で描け』みたいに、論理が邪魔をしなければ、誰でもインプロヴィゼーション、誰でも歌える、誰でも伝えられる。
「脳の右側で描け」の中にとても印象的なことが出てくる。有名画家の、線描の肖像画を、絵が苦手な人が模写するのだ。最初はそのまま普通に横に置いて模写。もう一度は、元の絵を天地ひっくり返しに置いて模写。最初の模写はあきらかに下手くそで全然にていない。後のはかなりいい線いってる。最初のは「左脳」が、これは「目」これは「鼻」と解釈してしまうため、見たままでなく、概念を描いてしまう。後のはひっくりかえしてしまったため、もはや「左脳」は概念を見つけることができず、働かず、右脳がでてきて、ただ見たままの線を写し取るのだという。私は、脳の右と左の働きはわからないけど、あまりにもあざやかすぎる話に、本当かな〜って思った。でも、うちの教室の生徒さんで、実際やってみてそうだった、って言ってる、絵の苦手な人、がいたのだ!
ヒッポで「勉強しない」を強調するのはこれと同質のことだな、と気づいた。
論理を止めるには「勉強しない」も一つの手。ただ実物を受け止める。
日本は、古来、勉強して外来の文化を取り入れてきたのだ。中国から漢字を入れ、意味を読み取るために、レ点や一二点を工夫した。明治時代に英語などを導入した時もこれと同様であろう。日本人の江戸時代における識字率の高さというのも、この、視覚優位の「勉強」というスタイルがすごく力を発揮していたんじゃないかな。
それでよかった。最初から「情報」として取り入れることができていたのだ。「情報」は扱いやすい。日本が素早く産業革命をなしとげ、戦後復興を成し遂げたのもたぶん、このことは、色濃く影響してる。
だが、それから困った。実際に多くの人が世界を行き来するようになると、しゃべれない通じない、のだ。そこに気づいたところで、たぶん、ヒッポが始まった。榊原陽さんは、独学的な人だから、言葉の学び方がオカシイことに気づいたのだ。
古来の外来文化の取り込みが、そのような「勉強」によっていたから、情報化社会の歪みを、もっとも顕著にしめているのが日本なんじゃないかな。
コンピューターを使って、どんな人とも、情報で繋がれる。
このことが、どんな風に大量の人を、均質のものとして扱うようなふうに(誰もが欲しくなって、大量に売れる商品とか)してしまったか。
これは一見別にこまんないことのような気がするけど、本当はとっても困る。
本来は、個体個体は、みんな違ったものであるのに、そのことに気づく感覚が(つまり上で書いている、右脳的感覚)眠って、論理、理屈、引いては正義、だけに収束するからだ。
自分が自分であることがわかんなくなる。これはやばい。
書き言葉は、なんというか、断片的だ。これを理屈を組み立てるのに使うのは、使いやすい。わかりやすい「正しいこと」がある。常識、となる。だから、夏でも背広を着て、ネクタイを締めて、革靴を履いて、クーラーでがんがん冷やしたオフィスで、カーディガンやストールで寒さから身を守りながら、電気をバンバン使っちゃうのだ。(なんで書き言葉が断片的だってことから、そうなる?これも意味不明。)
いっぽう、実際に話されている話し言葉は、もう、それとは全然ちがうものだ。
目の前に相手がいたら、息づかいから、雰囲気、全部、感じ取れるものがすごく多い。
少数の人でしゃべっていたらなおのこと。
本来の人と人のやりとりは「ここ」だ。
そこからはじめようとするのが、ヒッポだ。
前にいる人の、何かを伝えようとしてる声、音、雰囲気を、全身を感覚器にしてとらえようよ、っていうこと。つまり、それが、論理なんて全然知らない「赤ちゃん」になる、っていうこと。(概念、をキャッチしようとしなければ、そうとうにいろいろなことが自分に入ってくるような気がする。赤ちゃんの感覚してること、って実際すごいんじゃないかな。)
インプロヴィゼーションが、特別なのは、なぜだろう。
確か武満徹さんて、楽譜が書けない?読めない?ところからすでに天才音楽家だったよね。日本に住んでいて、多言語が得意な人は、こういうタイプかもしれない。多くの人は、そうはいかないから、楽しみながら「理屈」を「論理」を「勉強」を眠らせて、ゆっくりと進化すれば、いいんだと思う。
赤ちゃんは最初しゃべらない。ただそこに居て笑って泣いて、聞いて、見る。触って舐めて、褒められて、そのうちちょっと怒られる。すると音と状況の関係が掴めてくる。
大人も多言語の赤ちゃんだ。最初は全然しゃべれない。周りの人は「大丈夫かな、この人」と思うだろうし、いじめたい人だったら意地悪をし、教えたい人だったら一生懸命教えてくれるかもしれない。何にしても、赤ちゃんたる存在は受け取るしかできない。返すものは笑顔だ。もしも大人の赤ちゃん状態だとしたら、世界とうまくやる武器は返す笑顔と感謝しかないのだ。どんな仕打ちがあったとしても、新たな経験だね、ありがとう、と受け取って糧にする。青少年も含めて、大人の赤ちゃんの武器はこれだ、多分。何かを言われても折れないカーボンロッドのような心。いやいや、折れるけど、また生える植物のような心。
なんか書いていたら、多言語修行は平和への道、のような気がしてきた。
だって、国籍なんか関係なく、いやなやつはいやなやつだし、いいやつはいいやつ。
属してる集団というのは、論理あるいは書き言葉による「仮想」だから、それで争うのは本当におかしなこと。もし個人だけで争うなら昔の一騎討ちのようなことにはなるけれど、現代の恐ろしい束になってやる戦争のようなことにはならない。
さて、以上は、私の空想。
私自身の多言語の現実はいろんな機会にちょっとづつ進化すればいいかと。
9月に中国の人が来るからそことか。12月に香港の人が来るし。
ちょっと前になるけど、クレオメがすごく綺麗に咲いていた。なんか、好きなんだよね。モチーフにもした。
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