私は、東京製本倶楽部という団体に所属している。そこの会員向けページに7月に掲載したものに少しだけ書き加えて、ここに転記する。
近頃の私の周りの「本」をめぐるいろんなこと。
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私は「手で作る本の教室」という製本の教室を始めて、まもなく20年になろうとしている。「本」をめぐる状況はその間に驚くほど変わった。そしてこのところ、本について考えることがとても多い。まとまらないが、そのことを紹介したくて、以下に書いてみた。
1、まちライブラリー
先日、「まちライブラリー」の提唱者、礒井純充さんとお目にかかる機会があった。
うちの教室にいらしていただいてる生徒さんの一人が是非紹介したい、ということで、私の「手で作る本の教室」に連れてきてくれたのだ。
「まちライブラリー」とは何か。
礒井さんの去年の著書「まちライブラリーのつくりかた」(学芸出版社)のまえがき冒頭に、
まちライブラリーとは、メッセージを付けた本を持ち寄り、まちのあちこち
に小さな図書館をつくり、人と出会おうという活動です。
と、紹介されている。規模の大きい小さいを問わず、私設の図書館をつくり、それらをつないで、ゆるく連携したコミュニティーを作ろうという活動のようだ。おととしミネソタを訪れた時に見せてもらった「マイクロ・ライブラリー」の運動もそこに関連づけられていて、これについても礒井さんは「マイクロ・ライブラリー」(学芸出版社)を出されたばかり。こちらは家の前に、巣箱やポストと見紛うような可愛らしい箱をおいて、その中に本を並べ貸し出しするものだ。礒井さん、本拠地の大阪では「まちライブラリー」をなさっているが、東京の住まいでは「マイクロ・ライブラリー」をなさっている。それが私と同じ世田谷区の上北沢の町内なのだ。そんなご縁に気づいた生徒さんが紹介してくださったというわけだ。本っていうものは本当に人と人を出会わせる力が強いものなのだ。
2、電子書籍による触発
手作りの製本やっていると、本は情報の入れ物だね、入れ物をちゃんと作るのが製本だね、ということを強く意識する。内容に敬意を払い、持ち主のことを思いやり、デザインを決めて、丁寧に作っていく。
一方で読むのも好きな私は、電子書籍が出た当初は、何千冊もがこの中に!とか、単語にタッチしただけで辞書になる!とか、混んでる電車で片手で持って片手でタッチしてめくれて読める、とか、暗くてもバックライトあるからOKとか、字のサイズだって小さくも大きくも自在だから目が多少衰えても全然平気!とか、スゲーって大喜びしていた。
今も間歇的に中断はあるけど、使用続行中。だが、数ヶ月使っていると、何か体感的に違和感を感じるようになってきた。それは二つある。一つは、今一冊の(という感覚がそもそも無いのだが)どこらへんを読んでいるかが体感できなくて、まるでグーグルマップで迷ったように迷子になってしまう感覚、字の大小が変えられるから、レイアウトの特徴もさ挿絵のポジションも目印にならない。いくら数字や棒グラフみたいなガイドでどのあたりって示してもらってもどこらへんを読んでるかの実感はない。紙の本だったら、考えるまでもなく、もうそろそろ終わりだな、とか感知せざるを得ないのに。もう一つは、どの角度からみても変わりがない画面の雰囲気。このことはうまく表現できないのだが、紙の本だと開いたら自然な曲面の上に字が印刷されていて、自分が動いたり本を動かしたりすれば見え方だって変わってるのに文章はちゃんと読める。形が変わっているのにちゃんと受け取れてる感覚。キャッチボールでちゃんとボールがぱしっとグローブに入るっていう快感だろうか。自分のすぐれた能力を使って文を確かに受け取ってる感覚。電子書籍はこれがない。読書って意外に身体的体験なんだな、というのは、電子書籍がでてきたいまだからこそ、あぶり出されてきたことだ。
近頃、私の「手で作る本の教室」に、20代の人たちが続けて入った。彼らと話してるとびっくりすることがある。そのうちの一人は「白い紙の本が好きです。紙の表面をなでたり、触ったり、めくったり、ながめたりするのがとても好きで、印刷があるとかえって邪魔になるんですよね〜」と言い放った。私も手製本や、それから派生した工作的なことをやって30年近くなる。だからその感覚はわかる。でも、中身がない方がいいと臆面もなく言い放つのには、すげ〜、って思ってしまった。そして近頃の私は「それもあり」だな、と思うようになった。今の20代はいわゆるデジタルネイティブ。それだけに、紙の本に対する「飢え」とも言えるような憧れが、半端ではないらしい。活字、活版があれだけもてはやされる気持ちが正直なところ私にはわからない。(自分は「写植」が光り輝いて見えてる時代に青春期を過ごしたせいもある。)
もう一つ。このところ、ipadやiphoneで作る簡単動画講座、というのを受けていて、その中に「絵本を作ろう」っていうのがある。こういうのも電子書籍の一つだろう。keynoteというアプリを使って、イラストを少し動かしたり、ページがめくれるようにして場面が変わったりする。これも確かに、本、である。Youtubeにbookbindingの動画はたくさんある。自分も、iMovieを使って、製本の技法をわかりやすく説明できたら、従来からの技法書よりもずっとわかりやすく製本を教えることができるはず、と思ったのが受講のきっかけだった。
それはそうではあるのだが。
いつも手で本を作って、手書きや手描きの本が身近だと、普通の絵本すら「ちょっとものたりないな、所詮印刷だ」という感覚になる。パソコンの画面がいかにめくるように動こうとも(これは絵本ですらないな〜)という気持ちを消すことはできないのが正直なところ。。。
この上下数行は今日(8月23日)書き足したもの。動画、やっぱり気が乗らない。つくづく興味がないのを思い知った。(製本の動画をちゃんと作れば、世界のどこでも生活できる?な〜んて、ちらりと思ったのだがね。自分はそうは動いてくれないようだ。誰か、製本技法の動画って作りたい人いる?)
3、ブックアート的なもの
去年、一昨年と、アメリカに行ったら、そこには「ブックアート」という分野が既存していて、これも本なのかあれも本なのか、という作品が膨大にあった。私のやっている「手で作る本の教室」でみんなが作るのも奇想なものが多いけど、変さ、という点については全くかなわないし、かないたくもない、という感じだ。やはり私の生徒さんの一人から聞いたのだが、アメリカでデザインを勉強した彼女は、アートスクールにはブックアートの時間があって、これは本だ、と本人が考えるものならなんでも作ってOKだという。形が普通の本でなくてもいっこうに構わないとのことだ。こういうことが「ブックアート」という分野の土壌を作ってるんだな、と感じた。
まあ、アメリカでなくても、日本の作品でも、本についてのものは本当にいろいろなものある。篠原誠司さんが20年以上やっている「ライブラリー展」では、いつもそれを感じる。そこでは、子供とお母さんが合作した可愛い手描き絵本や高校生が初めて作った絵本と一緒に、これの何処が本なんだろう?という現代美術作家のオブジェが並んでいる。作家と篠原さんが「これは本だね」と判断したものであればなんでも出品できる公募展だ。そして多くのものが触ってめくって見ることができる。理想的な本の展示スタイルの一つだな、と感じる。
そして私の「手で作る本の教室」で生徒のみなさんがやってきていることも、これに類することだと感じる。一人一人の中にある「本」の妄想を形にしようとする活動。手作りの製本の教室、という理解で来ていただいているのだが、「製本」に着目してしまう人って、本の本質にひっかかってしまう人だとも言える。妄想を、立体構造化するにはどうすればいいか、自分の手で試作し、思索し、組み立てていく。大量の本が機械でできるようになった工業化社会では、手で本を作ることの必要性はとても限られたものになってしまい、職人仕事は狭き門となった。一方で、仕事に疲れた人々(?)が癒し(?)を求めて(?)教室でお金を払っても作っている。そこには価値の転換があると思う。高度なものづくりの工芸品にお金を払うのではなく、自分のため、あるいは頼まれて知り合いのために、手を動かして本を作り、結果として本もできるが、気持ちもよくなるということが起きている。「正常」を保つためにはこれが必要なのだな、と思う。金銭的に合わないから成立しない、という時代は実はすでに去っていて、お金をどこにどうつぎ込むかという価値観が変わっていっているように感じる。私のような製本教室をやっている人が、ほそぼそとかもしれないけど生きてこられてるというのは、本当に素晴らしいことだな、と感謝する。
4、過去を振り返って、未来を思う
以上のように、「本」ということに着目すると、本当にいろいろなものがあって、面白い。
このように種々雑多なことが、まあ、わーわーと今の自分の周りで起こっていて、そのいちいちに「わーっ!面白ーい!」って反応してる。それを一つのまとまった文にならないだろうか、とあーでもない、こーでもない、とまとめようとしていると、自分の「本」についてのインナートリップみたいになってきて、子供の時に思いを馳せたりして、年を感じる。なんでこんな自分になっちゃったんだろう、と改めて思う。
実は、冒頭に書いた、礒井さんに会って、手作りした本を実際に手にとれて楽しめる「まちライブラリー」をやってみたいなと思うようになった。それを思いついてしばらくしてから、小学生の時のことを思い出した。私の「本生活」の元を作ったのは明らかにこの時代だ。東京こども図書館の前身の一つ、土屋文庫という児童文庫が自宅の目と鼻の先にあって、土曜日に学校が終わったあと、そこに入り浸っていた。お話の時間があり、ろうそくをともしてそれをやるのだが、「おはなしのろうそく」(東京こども図書館刊行)という、読みきかせをやるときによく使う小冊子の名前がそこから来ているとはごく最近知った。そこは、とても居心地のいい場所だった。この「居心地のいい場所」というのがとても大事なことと感じる。中学生になると、児童文庫からは少しずつはなれ、こんどは学校の図書準備室がそういう場所になった。仲間と図書館新聞をガリ版で作るの楽しかったな〜。高校では友達の家でガリ版で冊子?雑誌?を作りまくった。大学では「平面工房」で、写植を打ったり、オフセットの校正機で本文を刷ったり、リトグラフで絵を刷ったり、そういうのが、まあ、超わくわくすること、だったわけだ。それは幸せなことに、ストレートに「手で作る本の教室」につながっている。大きく傾向を思うと、集うことから一人で作ることへ行ったのが、今ふたたび集う方向へと向かっている、と見ることもできるかな。その先にあるのが、手作り本を含んだ「まちライブラリー」というアイデア。
これから先、紙の本は、ますます、社会の中でのポジションを変えていくだろう。大量生産の社会で失われた、豊かさを取り戻していくような世界になるにちがいない。失われた身体感覚を取り戻すようなことと思う。まちライブラリーの運動もその一つだろう。そう、電子書籍は貸借りできない、という特徴がある。本は一人で読んだり、まあ、絵本の読み聞かせなんかでは、数人で楽しむこともできるけど、とても少人数に対応するメディア。直に人が人に出会える場を作る不思議な存在だと思う。そして手作りの本は、さらにその特徴が濃い。作り手がリアルに受け手の近くにいるし、触り心地はじめすべてのことがそのチョイスでしかありえない、この場でしか起こらなかった、ということに満ちている。個人対個人という本当に基本的な、出会いの場となるのが手作りの本の特徴だと思う。
それは、絵画にも彫刻にも、映画にも演劇にもない特徴で、これからの社会で必要とされる、あらたな視点の「本の美術」だと思う。
「手作りの本」+「まちライブラリー」、どんな展開になるかな。
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最後、あまりに写真がないので、上の本文と関係ないけど、おまけ。
押葉を作品に多用するので、いろいろ作ってるんですが、これは、カラムシ。教室生徒さんが作ってきて、一旦乾いて出来上がったのだけれどイマイチ仕上がりが気に入らなかったので、再プレスするため、水に漬け込んでるとこ。そうしてみたら、これは葉裏が見えてるんですが、蓮の葉の表のように、水を完全に弾くんです。弾いてるから銀色に輝いたりして。この状態もすごくきれい。(そして発見なんですが、一度乾いちゃったのを水戻しして再度押葉にしなおすと、また別の雰囲気が加わって結構いいのです。)
下はおなじくカラムシを使ったのの、作業中(これは漬け込んでないけど)。
こんな感じになる。そこらへん(といっても近所の某病院の中のグランドの付近。できたての更地もすぐに草ぼうぼうになるけど、そこにはない)に生えてるのに、葉裏がおどろくほどきれいな押葉になる。
前に作ったのの、アレンジ的なものです。
写真入れて、さらに長くなった。
どうなんだろう。この展開。
でもなんか写真を入れたかった。
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