2016年10月11日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
花森安治さんが、学生の時、ただ布を二つ折りにして縫って、穴を開けただけの服を着ていた、そのファッション感覚!みたいな話を多分どこかのウェブサイトで読んだ時、ぴっと来た。これは、ファッションでもあるかもしれないけど、むしろ着るということのもっとも原初、シンプルな形はどうだったのだろう、という実験だな、と。
最近、私はようやくトランクスをふんどしに変えて、その単純な仕組みと快適な使い心地に、このつながりを感じる。ええっ!なんでこんなに快適で簡単なものがあったのに、あんなに作るのが大変そうなパンツとかトランクスとかになったわけ〜〜?って。そこから類推しても、本当は、いろいろ凝ったことっていらないんじゃないの?というものものが満ち溢れているのであろう。それを売ったり買ったりしないと、生きられないという共同幻想の中で生きてる。それでいいってある意味思っていたけど、環境を驚くほど害してしまってるのがだんだんわかってきた。こんなに蕩尽する使い方って大丈夫なんだろうか、と、ちらりと感じる感覚が正しかったらしいよ。「これで経済が回るから、消費は美徳(古いコピー!)」で万々歳、っていうのはその人たちの間だけの話であって、その外部は大変なことになったりしてる。
数日前に、再び敷布団がない状態にもどった。昨夜は、少し涼しくなってきたから銀マット(キャンプでテントに敷くやつ)を敷いた。なんか、硬い床(と言っても、ベニヤだし、銀マットは敷いてる)と仲良くした方がいいんじゃないか、と感じてる。なんでかはよくわかんないけど。(災害の時、避難所で寝てもいつもと同じだから大丈夫、とか、やらかい布団の方がむしろ疲れるんじゃないか(ほら、体が重力に安心して身をまかせられないような気がする、とらえどころがなくて)とか、布団を収納するスペースって結構要るんだよね、とか、まあ、いろいろ。干さなきゃなんないとか、ああダニのことも考えなきゃなんない、とか)
服も、Tシャツ、なんとかならんものか、と感じてきた。それこそ、花森さんのような貫頭衣に行くか。そう!着物を日常に着てみたいとか言っていたけど、いっそ貫頭衣行ってみるか。江戸じゃなくて、室町じゃなくて、弥生とか縄文にさかのぼってみる〜?(興味あることには、凝り性だから、好きな手ぬぐいを接いで、とか、つい思うけど、手間だな。Tシャツの楽さには、勝てないだろうかな。うむ。)
などといいつつ、この夏は、息子と二人で家では上半身裸なことが多かった私。(「逝きし世の面影」読むと江戸末期や明治初期の日本て、そんな感じだよね)裸って楽。自分を解放してる感じと、皮膚感覚に邪魔がない感じがいい。寒い時はなんか着るけど、暑い時はやっぱ裸だよ。
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