2016年10月11日|ブログ|個別ページ| コメント(1)
実は、いつも、だいたい 「くそっ!」って思ってる。
意味わかんねー、って。
以下は、それで思い出した、若い時の昔の話。
そうなんだ。
美術大学に行ったけど「ちょっと好きそうだな」と思ったとこにに顔を出すと、いろいろ言われる。
「君はここに来る人じゃないよ」的なこと。
そんなこと、いちいちショックうけんなよ。若造だったな。ってことだろう。
だけどね。そのころは毎回毎回ショックだった。
友達が亡くなってお悔やみに行った。
芸大の人たちって、そう、お悔やみをするのにも喪服なんか着なくて、自分を表現したものを着てきて素晴らしい、ってそのお母さんは言った。
そういうことを話したあとに
「あなたはそうじゃない」
って言われた。えっ?おれ?なんで?どうして? 大ショック。
確かにその時着ていた服は、親のインドネシア(?だったかな)からのお土産で、自分で選んだものじゃなかった。着るものすら自分で選んでない、ぼっちゃん、良い子。そこを見透かされたのか、と思った。どこの世界でもそうなのかもしれないが、いろんなことが透視?霊視?、そういうことができる人がいる。
「おれは、そんなことをいう人たちの友達なんかでいなくたって、全然かまわない。」
それがその時の随分傷が癒えたあとの気持ちだったような気がする。
インドを放浪した友達のアーティストの、何かの集まり(演奏会だ、きっと)に行った時。
演奏の後の飲み会で、 シタールじゃないんだけど、多弦の楽器奏者の人に、ビールを注いだ。
その時、
「君はそんなことをする必要はない。ここは君のいる場所じゃない。」的なことを言われた。せっかく注いでるのに。
僕は、ここに集まっているような芸術家の仲間ではないのだな、と思った。
激しい個性と主張らしき雰囲気をもった人のところにいくと、いつも、自分の弱さと、表現の芯とか軸とかのなさに
エネルギーも自信も喪失した状態で帰ってくることになる。(たぶん、そういう自信のなさみたいのを見透かされてたんだろうね。)
僕は、あらためて自分が、アーティストじゃないんだ、とおもいしらされた。
金属線で編み物をする作家とそのご主人とその友人の歯医者さんと話した時。
この時は、その人達を家に呼んで、たぶん、製本の教室をみせて、作品も見せたんだったかな。
終わったあと、近所のラーメン屋でラーメンを食べて、その隣のおでんやで、さらに飲んだ。
アートのコレクターでもある歯医者さんが言った。
「バレエはね、プリマドンナになる人は決まってるんだ。体型とか素質とかでなれる人は決まっている。だから、そうじゃない人は、周辺を支えるようにして、バレエとかかわれるようなシステムができてる。アートもそうなんだ。アーティストはなろうと思ってなるもんじゃなくてプリマドンナのようなもんだ。君はそうじゃない。」
それから、二人の男性は僕を言葉で、ぼこぼこにした。
このショックからは、1〜2ヶ月立ち直れなかったような気がする。
「やりたいことができないんだったら、アーティストになんかならなくっていい。頼まれたってなってやるもんか」
それがその時の傷が随分癒えたあとに出した結論。
あと、なんだっけ?いろいろあるけど。
同じ学校に行ってた、とか、同じ地域で育ったとか、業界で似たようなことをやってる、とか
そういう関係って、私が、本当に「座り」が悪いのは、こういうことを経てるからだろう。
そいつらは多くの場合、友達なんかじゃあない。(あ、いや、大学の友達、仲いい人います。。。)
「朋は遠方より来たり。また楽しからずや」
でしたっけ。論語。そんな方がいいよな。しがらみなくって。
今は、
そんなことで、僕を鍛えてくれて、みなさんほんとにありがとう、と思う(本当に本当にそう思ってるよ)
と同時に、
「くそっ!」(英語だったら、シット!、かな?)
って思う。「ありがとう、くそっ!」って。
根に持つタイプ全開だぁ。
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