2016年10月29日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
田原さんとの対談以来、自分の変化が、変態、との言ってもいいような感覚がある。幼虫が蛾になる時(蝶に例えないのは、もちろん、幼時から蛾が大好きだから。写真は数年前に撮って気に入ってるエゾヨツメ。触覚切れてるけどね。)、変態している本人?本虫のフィーリングはどんなだろうか?あれだけ形を変えながらも、同じもの?
組み変わる、感じ?
自分が今まで思っていたようなものではないかも知れない、というか自分を眺める視点が、全然変わることで、自分自身が組み変わる感じだ。去年の個展の時思いついたのは、社会の片隅で、寄生虫のように生きてる、というイメージ。虫好きの私としては、自身を寄生虫に例えるのは、全く卑下ではないつもりでした表現だ。(例えば、サナダムシを体内に飼うと花粉症がでなくなる、など、寄生というより共生的なものを思っていた。)が、やはり微妙に卑下だし、片隅、も微妙に卑下だ。そこからのささやかな反逆という、気分があるということにおいて。
雑草のように逞しい、という表現がある。
しかし、全ての生き物は、その場において力を発揮して生きているだけだ。雑草は単に人間の立場からみると、雑、という卑下を受けるポジションにあるだけ。単に畑の条件で繁りやすい性質。益虫、害虫、というのと同じ、人間の都合視点からの「雑」。その草本人、あ、いや本草から見たら、もう全然ちがうフィーリングなのは自明。
そして、私の寄生虫比喩は、「雑草」という人間の都合視点と同じであった。
で、私は、自分本来である「虫」に還ろうというわけだ。そこから眺める自分の姿は、幼虫と蛾ほども違っている。
卑下をやめて、実は本質を感覚してる者だと知って、行動しよう。
製本教室で自分が実地に学んだこと。目的地がない遊びや、気晴らしだと思っていた。しかし、元々生きていることに目的なんかないんだ。組み上がってしまっている人間社会の中で、どこにはまるピースになればいいのか、と感じたとき、目的意識が生まれる。そこに向かって頑張るという幻覚、共同幻想。生き物としての生命力がそれによって失われる。(人間のように殺しあう生物種は少ない気がする。殺しあう生き物であることも進化なのだと思う。人工的なものすべても大きくみれば自然の産物。だから人間という奇妙なあり方も、進化の末にある自然なありかたなんだろう。)
自分の製本教室(と便宜上呼んでいるが、実際はなんだかわからないものを作っている。「本」は、文字内容と紙とか革とか金属板とか木とかあらゆる物質がクロスオーバーする領域でそこではいろいろなことが分類不能で漂っている感じがする。多分カオス?)では、ただ目的を決めずに楽しく遊んでる中から、何かが生まれてくるのを、繰り返し繰り返し体験してきた。
経済でちゃんと動いている共同幻想社会の真ん中地帯からは、凄く辺境だ。おかげで、ゆったりそれを、体験できたのだ。
「本」というテーマ?お題?のようなものがとても有効に機能するキーワードでもあったんだろう。
今はまだ、抜け出したばかりの、蝉のように美しく弱くやわらかな状態と感じる。
おまけ写真↓
これも随分前に撮った、ウスタビガの幼虫。「鳴く」って聞いてたけど、この時、はじめて聞いた。たしか、ぎゅうっ、ぎゅうっ、っていうような声だったよ。このツートーンの体、綺麗だよね〜。葉表と葉裏に対応してるのかな?
この後ちゃんと蛾になったんだよね。(成虫の、四翅の中央にある円文は、すーけすけで鱗粉がない。そこがまたセンスを感じるのだ。本当、自然って美しいな〜)
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