2016年11月 8日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
三泊四日で福島に行った。いろいろなことが自分から出てくる場だった。
写真は、坂下ダムから遠望する、福島第一原発の排気塔。
1日目、2日目は、浪江町や飯舘村や富岡町や大熊町や川内村を、地元の人に案内していただき、お話をうかがったり、対話の時間を作っていただいたりした。
3日目、4日目は、蓮笑庵で、やはり対話の時間、いろいろのワークというの?セッションというの?そういうのをした。
4日目。最後のセッションでボブさんが言った、言葉。
「今、この、みんなの作っている人の circle 輪っか は tenderness に満ちています。」
と聞いた瞬間に、ぶわっ、と涙が湧いてきた。
「そして、tenderness の中から勇気が出てくるといい」
いやそれが「いい」だったか「出てくるはずだ」か「出てくる」か、わからなかったけど、僕はいまこの場は、まだ自分に勇気が生まれる前の場だな、と感じた。
あーあ、僕もあゆみ(参加者の一人)の言ったように「夜明け前の一番暗いところ」に近いところに居るのかもしれない。
昨日、今朝、息子や妻の点けるテレビがうるさいと感じる、その感じ。
(そのくせ、気になる話題はしっかり見ている自分。)
高尾山に行って、山とか土を感じたい、と思う、その感じ。
tenderness ってボブさんが言った感じは、話していたら一緒に泣いてしまうような感じかな。いいようのない怒りを止めている顔に相対した時に、自分もなんもいえなくなる感じ。
なんもいえね。
それは、多分、泣くための泣かせるために作った映画を見たって同じように見える反応があると思うけど。でもね、多分もっとその場所の地面とかそこに居るっていうこと目の前にその人が居るっていうことから起こっている。あーあ。こうなってしまった、この場所がいつも暮らしている私の居る場所から230キロのところにあるんだな、ということ。その距離感だって怪しいもんだ。わかるようでいてわからない。そこ、に居るだけがリアルな感じかも。にも関わらず全体を感じてしまっているはずの自分の生体。230キロ、は、感じてるんじゃなくて、理解してるんだな。
なんだろう。いろいろなことを表層処理しないように、と思った。
今は、まだちょっと、話したくない。かな。っていうか、どうすべきとか言えない。
坂下ダム入れていただき、福島第一原発の何号機かの排気塔を遠望させてもらいながら、この水を事故の時に流せていたかもしれない、海水をヘリでかけるなんていう無駄なことをせずにいれたかもしれない、と語っている、じじい部隊の鈴木さんの横顔。
川内村の6区地区長の渡辺さんが淡々と、若い人は戻れない、あと何年農業をできるかな、最新のコンバインの無償に近い提供だっていつ終わるか知れない、と語る顔。
佐渡への子供達の保養、原発福島市へのスタディツアーの案内をして「食いつないで」いて、二本松に住み、佐渡に行き、家族は山形(だったか?)という関久雄さんの、多分、ずっとその三ヶ所を移動しながら生きて行くだろう、と語る、硬く引き締まった目。怒りの詩を書き、放射能を含んだ土をリュックに詰めて東電や厚労省に渡しに行った、その表現行動。
それぞれの人のそれぞれの思いや行動は、すぐ近い人でさえ、一致しない、踏み絵のような状況。
除染のために樹皮を剥ぎ取られて、表土を剥ぎ取られて、プレコンバッグに入れられて軒先きに積まれている、それがどの家もどの家にもという福島市のこと。
それらに触れて、自分におこることを素直に出していくしかない。自分は生物体であり、生物体はいろいろなルートを使って、全体と繋がっている。
表層にある、理知的な理解で、どのような仕組みかを、ざっと理解することはでき、ではどのようにすればいい、ということはある。
でも、どのようにすればいいか、っていうのが理知的には解決できるはずはない、ってわかった。隣の人とだって意見が合わないのだ。理知的に考えても。「正しさ」がどこにあるかは見方、どこに基準を置くかでいくらでも変わってしまう。
だから、ただ淡々と、自分がいいと思うことをやるしかなくて、それがダメだという人のことにそれは違うといいもするけど否定はしない。無いところにもルートはあるかもしれないから、ともかく行動してみる。
3日目の夜、オープンマイクの時に、僕は、本当は早川義夫の「埋葬」を歌いたかった。が、楽しい歌詞でないし、そもそも歌えるかな、という自信がもてなかったから、実際には歌わなかった。
その前の夜「埋葬」がふっと頭に出てきた。今の福島のことを歌った歌なんじゃない!?っていう感覚が先か、出てきたのが先か同時かよくわからんが。宿の温泉で静かに一人で歌った。高校生(!)の時以来、一番たくさん聞いて、一番たくさん歌った(夜の誰も居ない道とか車の中とか)歌だ。(ぼくは好きな歌がたくさんある。でもそれをあんまりブログに書かない。なんか一番自分を出してしまっているような感じがして恥ずかしいから。)
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このjourneyのプランは「アクティブ・ホープ」(ジョアンナ・メイシー著)という本から作られている。この本を途中まで読んでいる状態で参加した。帰ってからまた少しずつ読む。それと、昨日は TTPSゲームというのを体験した。
それで思うのは、世界は僕の知らないことばかりでできているから、対処の仕方なんか、知ってるはずはないということ。考えていてもわからないから、とりあえず気の向くように動いて(つまり考える以前の生き物としての自分を信頼する)、誰かからと自分からのフィードバックを得て、また動く。それだけなんだな、という思いを強くした。
ただ、そこに行くための理由として、ノート作りとか本作りのワークショップをやりに行こう。何かの役に立つとか考えない。行く理由として。
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