今日は朝から、ウキウキ、する。(どんよりとした曇りだけどね。)
数週前から花粉が飛んで、私は中学生時以来の花粉症持ちなのだが、年をとったせいかこのところ大分軽症になっている。
今年も、鼻水クシャミ目のかゆみはあるがそんなに辛くない。(薬はほとんど使ったことがなく、マスクとメガネで対処してる。)
むしろ、目が暖かくもわっとしたり、鼻が少しむずむずする感じが、ああ春が来たんだな、ってなんか嬉しい感じなのだ。 こう言っても、やせ我慢ととられる割合が多いんだろうけど、正直な実感である。
貝母がもう少しで咲くところまで伸びてきた。
facebookの反転授業グループに参加して一年半以上が経っている。 それを主宰している田原真人さんを杉岡一樹さんから紹介もらったのだが、 なぜ私がこの名前のグループに入ってるのか「?」なまま、ただ面白いことがたくさんでそこにいる。 (ヒッポファミリークラブにしろ、なんにしろ、私はいつもこのパターンなのだが。)
私の仕事は、教える、ということではあるけれど、いつも実物を触りながら作る実習がほとんどで「反転授業」というものとは縁遠い関係だと思う。
たまに美大で教えるが、そこで会う人たちに、「反転授業」と言っても、あまり知られていない様子だ。
最初に、オンラインでのリアルタイムのやりとりに、ものすごく可能性がある、のを感じて驚いたのだ。 (zoomっていうアプリがすごい!実は昨日、ヒッポの人達とも初ミーティングをしてみて。。。。それについてはまた。)
先週も、約2週間にわたる、オンラインでのイベントに参加した。
「新旧パラダイムに橋を架ける」というテーマのオンラインワールドカフェ。
あたらしっぽい、カタカナ言葉が並ぶけれど、
「うまくいかなくなっている、または、これではいけないのではないか、と感じる現状をどうすると打開できるのか、話し合ってみよう」ってことだと理解してる。
「2週間」といっても、下のような手順。
● 最初に6人の人のお話(講義とも言えるし、対談もある。「インスピレーショントーク」って名付けられた意見表明。) を録画やリアルタイムの中継で視聴する。
● そのあと1週間くらいは、その感想をfacebook上のグループのところに書き込んでいく。
● そのあと、オンラインで2〜3時間のワールドカフェをして、pc上だけど顔を突き合わせて話し合う。
● さらにそのあと数日間で、感想を書き込んでシェアする。
最後にシェアした私の感想が下記。
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ワールドカフェの期間中、竹内敏晴さんと野口三千三さんから流れを受けた瀬戸嶋充さんの声と身体のワークを受講しました。 野口体操で身体が水の入った皮袋となり、 あれっ?というごく短い時間の体の内部のうごめきを感じ、それが凄く気持ちがいい。
すごく細やかに、小さなたくさんの渦のような流動が感じられて自然と顔が微笑む。この揺れを感知すると、嬉しい。そんな感じで生きたい。そうしたらあんまり間違わない感じがする。判断をするために知識と知力を鍛えても、生き物としての人間の力が弱くなる感じがする。(知識や知力は魅力的なおもちゃだと思って生きれば良いのじゃないかな?知ったり考えたりするのは苦しかったり楽しかったりするものだから。)身体の、声、や揺らめきがキャッチできなくなったら本末転倒だなー。と。
そして、この人たち(竹内、野口)の文を読むと、あ〜〜そうだよな〜というのと、そ、そういうふうに理解できるのか!という発見とで、すごく感動する。
竹内さんは、聴覚がなくなって普通のコミュニケーションができないところから少しずつ回復していって、「普通の」能力を獲得した。なので、言葉というものを「もともとあるもの」とはとらえておらず、それがどのようなものなのか、ひとつひとつ意味を見出し、能力を獲得しながら見出していってる。普通の能力がある人にとっては、意識下にあることが、見事に言葉化されているので、感動するのだ。マイノリティの役割はこういうことではないか。マジョリティの人に当たり前になりすぎていることを、意識化し、言葉化することができる可能性を持っている。言葉化ができたとき、意識下にあったそのことは、マジョリティの人にもとどく架け橋となり、大きな感動をもたらす。 だから、できない人の方がいい、という言い方もできる。苦しみがともなうけど、苦しみながらできるようになり、それを言葉化できたとき、多くの人にもたらすものは大きい。(だからこそマジョリティーの人たちは、マイノリティを多くの豊かなものをもたらすものと考えて、排除しようとしてはいけない、できれば優しく見守る寛容を持ってほしい。)
そして、毎度考えるのが、ヒッポのこと。ヒッポ活動のみそは、上の竹内さんの言葉の獲得と同じ。単言語の種族と思っている日本人が、多言語を獲得しようと試みるのだ。「英語ひとつに苦しむ日本人が」多言語。逆にいうと、インドとかアフリカとか多言語な状況が当たり前のところでは、ヒッポのような発想は生まれてこないし、多言語の地域に行ってヒッポのことを語ってもあまりうけないらしい。(つまり、言葉化はまだまだなのだ。)また、いったい言葉ってどういうことなんだろう、という根本にある疑問はいつもありつづける。そしてこの35年以上も、ずっと自主的にやっていることは、音声を分析するために「フーリエ解析」を理解するために、先生なしに勉強した「フーリエの冒険」にはじまる冒険シリーズ。「DNAの冒険」「量子力学の冒険」。非常に主体的学び。なんなのか、純粋に知りたいという衝動と、仲間と一緒にやりたいという自然な人間のありかたとの結晶で、この多言語活動のことが、上の竹内さんのようにうまく言葉化できた時に、すごくおおきな感動をみんなに与えるはずだ。 音による言葉の振動は、さっきの身体のうごめきと同じ種類の波動で、それはそこのセンサーで受け止めるもの。 そういうすごく身体的なことを、「言葉化」「書き言葉化」「意味言葉化」?できたとき、多分、物理で数式化できた時のような感動がある。ああ、そういうこと!と、わかる人にわかる。
インスピレーショントークでの、杉森公一さんの「今、こどもたちは現代の人間世界の変化を受け止めていてすでに変わっている、それについていけていないのは学校の方であり、大人たちであり、大人達は既存の枠組みでうごけない。だから大人はこどもたちから学ぶ必要がある」というような言葉にすごく打たれました。
自分は製本教室をやってるとき楽しいことは、この人、この作業をどうやるかな、とか、どう説明するとわかるだろうか、とかをいろいろ考えること。うまく行かない作業がある人がいたら、それがどうしてなのかを伝えたいので、いろいろ試みる。そこでそれまで説明できなかったようなことが言葉化できる時がある。しゃべっている自分の言葉を聞いて「ああ、そういうことなんだ〜」と発見するのだ。 つまりできない人から学ぶ。 拡張すると、自分とは異質な感覚と出会い、それを、なんなのかな?と、言葉化できた時、それは多くの人に届くものになる。 こうして、より多くのひとに理解できる形を見つけることもあるし、個別にこの人にはこう伝える、みたいなものが見つかる時もある。 伝わる、とか伝える、という問題なのだと思う。 そこに感動がある。 だから、本当は地球が滅ぼうが、人間が滅ぼうがかまわないのかもしれない。 個人がそのうち死ぬように、人間もそのうち滅ぶ。 だから、楽しいも、悲しいも嬉しいも、伝わるとか伝えるということを感じて生きたい。
生き方の逆転。
工芸をなりわいにして生きたい人(手を使って作らないと、健やかに生きられない人)。工業で必要なものは作られてるから、本人の「作りたい」という衝動を抜きにすれば、不要な存在。だから、高度な趣味人に対して作るしかなくなり、熾烈な競争を勝ち抜いて、お金を手にしてようやく「それで食ってます」となる。なんか不幸だ。 本質的には、価値観は多様だ(と私は思う)から、それぞれの必要に対して、それぞれ作り手が居ればよくて、そこでは、お金になるか、じゃなくて、やって嬉しい(感覚とエネルギー両方の飢えを満たす)かどうか、という生き物としての本質に近いところにいられる。その人個人に対して作るから、お金をもらうかもしれないし、食べ物をもらうかもしれないし、感謝は間違いなくもらうだろう。 細かいうごめきを感じるのが嬉しいというのは、こういう「感じ」なんだと思う。 殺伐としなくなる。量産品に合わせる必要がなくなる。(量産品はものすごく基底的なシンプルなものになる。)
競争(受験、売り上げ、オリンピック、スポーツ、、、)をする幻想を打ち破るには、身体の細やかなよろこびを感じるようになることだと思う。 届く言葉を発見していけるかだなー。 マイノリティ、マジョリティ、と書いたけど、あらゆる他人、あらゆる異質、にどう届く言葉を発見するかに尽きるんだなと思った。
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と、いうようなことがシェアした感想。
それよりも前、NHKのプロフェッショナルをなんとなく見ていた時に、その料理人が「素材を差別しない」のが大事、って言っていて、ゴミにしちゃうようなもので、美味しいものを作る、のをたのしそうに紹介してた。共感した。(高級食材とありふれた安い食材は、お金という一つの尺度で序列化されたもの。「単純に、味を感じる」という感覚を曇らせる可能性がありあり。まあ、だからこその面白みもすごくあるのだけれど。虚実の駆け引き的な。)
料理は現実の「もの」だから、目の前にいる「その人」をよろこばせる。製本された本も現実のものだから、目の前のいる人をよろこばせる。そして、料理よりは長持ちするから、私の知らないどこかのだれかをよろこばせるかもしれない。一方、今書いてるように自分の感動したことを言葉にすると、それはそれで、現物よりももっと遠くに、長い間、届くかもしれないし、そうでないかもしれない。ものにせよ、ことばにせよ、どちらにせよ「表現=伝わるそして伝える」が私のすることなのだな、と思う。
(だから「ブログを長々書いてもいいけど、作品つくんなきゃね」という焦りが少し減った。。。。。。かな。いや、作品もつくらないと。。。)
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