貝母、きれいに咲きました。
NVC(非暴力コミュニケーション)のディープリスニングというもののオンライン講座を受けてます。(横文字の羅列・・・・・・)
コロンビアの人、ホルヘ・ルビオさんが先生。 といっても、ホルヘさんのことも良く知らぬまま(どうも凄い人らしいぞ、というイメージだけで)、NVCの本も最初の受講から数日たってやっと読み始める、というふうですが。
田原真人さんと繋がってからというもの、繋がっている人たちのところで時々聞こえる「NVC」という語。 なんだろう、それは。という興味と、どうやらホルヘさんがすごい人らしいということと、英語の講座なのだけれど、だめな人もフォローしてくれる、というのと、ちょうど大丈夫な時間ではないか!ということで、即決で受講を決めた。
言葉、っていうのが、どういうものなのか、ということを 考えてみる、のが、自分のやりたいことの焦点のような気がするこのごろ。 「考える」というよりは、そのことで何かを作ってみて、そこの中で遊ぶということだが。
よくはわからない、ぼーっとした塊が現れてきた感じがある。
なんで本が好きだったのか、 なんで手製本をするようになって、そこに「なんかある」気がしたのか。 そして、やっぱ「なんかある」ことはないな、と思ったのか。
そんなことは、ヴィパッサナー瞑想を習得すればすぐに解決する、のかもしれない。 そう思いながらも、まだ、トライしていない。 本は何冊か読んでみた。
システマも同じ。面白い考えだな〜と思って、本を何冊も読んだ。 これは画期的だ、と。 だが、まだトライしていない。
書き言葉を読んで、入れた知識からの興奮。 おそらくこうであろうと、頭の中でのシミュレート。 楽しそうなことがあるまわりを、まず、ぐるぐるあるいている。 そんな感じ。
そして、多分、そういう技術(瞑想、武術)は、よく生きて行くためにとても実用的だったり、崇高や命がけの目的のためだったりで本当に必要なこと、なのだろうけれど、現代日本の高度成長の中で、ある程度お金にこまらない家で育ててもらった私は、体はぬくぬくと、こころには少しの時代に即した鬱的な悩みを抱えて、育っていった。
ホルヘさんのオンライン講座を受けはじめたあとに、 ようやくNVCの本を読みながら今思うのは、それの論理が数学のように難しい。 というのか、論理の正誤がわからない。私の論理思考力がとてもあやふやだ。(私は、本当に、ごくごく単純なことしかわからないのだ!)
日本語なのに、どっちがあってるのか、答えられない。マーシャルさんの回答と意見が合わない。 あー、こりゃ、自分では無理だな、と、思う。
もしも英語話者で、英語で読めば明快にわかるのか? あるいは、文字化されているから判断できないのであって、現場で話し言葉をあびていたら間違えないのか。
論理を語るのも言葉なのだが、その使い方は、難しいな〜と感じ、苦しくなる。 どっちが正しいのか、わからなくなるのだ。 というわけで、その「くるしくなる」感覚を認めてあげて、論理の判断をほっとく。
もうちょっと、動物の鳴き声的なものとして、かかわりたくなる。
少し引いて(俯瞰的に)みると、 学習の枠組みができ、さあ、これでマニュアル的に伝えることができる形が整った、と なって、では、と伝える。 全ての、名づけられてるメソッドは「そういうこと」な感じ。 形を学ぶ、いや型を学ぶ?、ってどういうことなんだろうか。 弟子のとき、自分のフィーリングは封印して、師匠のやり方に全面的に従ってみる、感じだったかな? そんな感じがする。 そうであっても、そうでなくても、いいのかな。 NVCも厳密なやり方がありそうだ。ホルヘはどうなってるのかな? マーシャルの言葉は難しいな。
今の私の基準は、自分が面白そうと感じるかどうか。面白そう、興味がある、 センサにかかったものに、理由は考えずに、接近する。
でも実は、面白そうと自分が思ってるかどうかは、問わない。
こりゃ、こっちだな、って感じ。 人に説明するときは「面白そうと思ったから」。
これは自分の行動をあとから解釈、解説してみたってこと。
行った場で、ブライアンのように味わう。
「ブライアンのように」とは、友人のブライアンの話。
一度でちゃんと覚えようとしてメモをとってきっちりするのではなく、
「とてもこれはできそうな気がしないな」と思いながらも、やりたいから何度も何度も習ってみる、という態度。
そうやってるうちに、メソッドじゃなくなって、自分に取り込めたら自然と使う。
自分の行動は、自分以外の方法ではありえない。
ホルヘも、そうなってんだろうな、と、思う。
「こんなNVCのトレーナーがいる!」 って、ホルヘが言われてるらしいのはそういうことなんだろう。方法がすごくよく身について身体化されてる、というより、自分の中から出ようとしてるものがNVCに出会って、外への交流口を見つけた、って感じなのかな。
講習を企画された方の感じも、日本人には、マーシャルの書いていることをそのままやろうとするのはかえって違うことをやることになってしまうかもしれない、 というけはいもあり、 ホルヘを連れて来たくなるんだろうな。
やり方を、マニュアル化(=形あるもの。形式知。っていうのかな?)することは、
人に伝える時に必要だし
自分が理解するために必要 だ。
だけど、できた型を使って、どう、するのか、だ。
型、は、ゲームをみんなでやるためのルール?
伝える必要は、本当にはなくて、その人から出てきたものと 他の人から出てきたものが 交流できるための、契機?
単に、その人が自分を出してこれれば、それでよし。
「芸」だったら、守破離、なのかもしれないけど、 芸じゃなくて、たんに生きることだったら、どうなるの?
Aさんは、製本(からスタートしたものづくり)をたよりに生きてる。Bさんなら、物理(からスタートした生き物や人間理解)をたよりに生きてる、のか? じゃ、Cさんだったらどう?いろんなものをやってきたCさんだったら、そのいろいろなものの総体をたよりに生きてるんだろう。 たよりにして生きるもの、いろいろは、目的ではなく、どちらかといえば手段なんだろう。(天職っていうのは、手段なんだろう。)
そこを起点にしてものを考えるというか、生きるを考える、というか。
人間って、ただ食べ物をたべて命をつなぐっていうのがとても難しい。なんかしなきゃいけない、強迫がある。それは言葉があって、考えちゃうからだろう。言葉は、分ける。言葉で、はじめて、分かる。 しかし、分かった気になったとき、人の心を味わわなくなる。
言葉で言えたのは、数式で書けたのと多分同じ。 言えた時に、終わる。
ドルフィーが、 When you hear music, after it's over. It's gone in the air. You can never capture it again. って言ってるのと同じなんだろうね。
文章という標本を作って、その生き物を捉えた気になるけど、その命は無くなってるんだ。(そして、標本を作って、箱を埋めていくのはとても楽しかった。小学生の時にとても思った。私は美しい(自分基準ね)蛾を集めていた。)もちろん、あとから眺めてその美しさを存分に味わえるし、文章もそこに書かれてはいないことまで自分の中に見つけ出すことができるから、すごいよ、人間て、言葉って。)
多分、現在の自分の「言葉」というものについての理解を
もっと展開して別物に至らせる必要がある。
それが体感的言葉というか、人間の言葉は一つの仕組み(生成文法がある)、ヒッポでのフラワーモデル、というか、ビヨンドサイエンス(って英語間違ってるかな?)科学の向こうというのか、それを超えたもの、っていうのか。(もはや、わかるように書こうとしてない。。。。独り言の部類。。。) 外部から何かを取り入れるのではなくて、自分の中の深くから出てくるものは 同じ生き物として、人間の他の個体とも繋がってるっていう感じ。 生成文法は、 言葉が習うものではなくて、実は自分の内部にもともとある、 つまり、人間という生き物の内部は、すべての人間に繋がってる という感じなんじゃないかな。 人と出会うことによってはじめて、その機能が顕れる。
そんなことを意識したら、知らない言葉の人に会って、急に言葉を交わしてもなんかわかったりするのだろうね。いやわかる、は、論理をわかる、だから、そういうことはわからない。
だけど伝わるんだな。わかる、んじゃなく、伝わる、んだ。 だいたいにおいて、わからないと思うから使えないと思っちゃうんだけど、 伝われば、使えてるのだ。
そして、実は、科学で「わかった」ことって実は割とどうでもいいこと、な気がする。 わかろうとしなくてもいいんだ。きっと。
わかるより、伝わるが大事。
なんかいいこと見つけた気がする一方、単なる戯言とも思う。
こうやってぐちゃぐちゃと書いてるようなことが、自分の天職的なものであって、ここらへんのことで、何かを作るような気はする。こういうことで実物(なんらかのアート的表現)が何かできるのかな?迫る、展示。。。。
NVCなどいろいろな技法は、紛争やら社会での問題やらをなんとかするために編み出されたものだと思う。だけど、それを、なんとな〜く、面白いな〜っていうだけで体験してる自分。まあそれでいいんだと思う。自分のリアルはここにしかないので。
小さいところ、というのか、現実に会う人(家族、友達、生徒のみなさん)の中で何かをやるというのが自分のやること。(で、意識はできないのだけれど、確実に世界に繋がってしまっているのだ、それは。)
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