5月1日、仙台での、東出融さんのお話とボディワークの会に行った。
その前に、田原真人さんとの対談と、東出さんのラジオでのトークを聞いて、しばらくたってから、あらえびす、の、水源を守るサポーターになった。日本の豊かな水源を、市民自らの手で守って行こうという運動。
この仙台での会では、東出さんは、すごいスピードでご自分のこれまでを語りながら、身体の使い方をやってみせ、触って体感させてもらい、こちらもやってみた。
東出さん、あやしさ全開なんだけど、楽しい。そして、すごくまっとうな感じがする。
やっぱ、勘でサポーターになっちゃうよ。
すでにサポーターになっているその伏流水の味も、美味しいとは思うけど、すごく、ああ、ってわかるわけではなく、そのいろいろの測定の数値も、私は、もはや数値とか重視してないからまあどうでもいい。(ていうか、意味がよくわからない。)そしてその場の興奮でわーってなるから、簡単に騙されやすいな〜って自覚してる。なんか理由はないのよ。まあそれでいいかな、と。
それに今までの実績(?)はいつもなんとなくこっちっていうので、むしろちゃんと生きてきてる。で、それでよかったとはすごく思ってる。目標はいつもあんまりない。ただ(先が)「わからない」ということこそが、生きることのすごい原動力なんだな、と思い、東出さんが、やりかたがわかっちゃうとやる気はなくなる、と言ってることにも共感した。
「これは、あやしいっ」って考えて「居ついた」状態になるのが最悪。そう、つまり「居つく」のは、どっちが「正解」かを当てようとするからで、どっちを選んでも、生きるしかないのだから、正解かを考えて迷ううちに死ぬより、選んで次いってまた選べばいいだけ。)
あーあー、これだけいろいろ書かないとだめなくらい、ブログを書こうとすると、あやしいよ〜。
これまでも「思考」が生き物としての人間の動きや働きを妨げているな、とは感じていたが、ではどうすれば、というところで、ああ、結局瞑想をして、思考を流してしまって、それに囚われなくなるトレーニングをしなければならないのだな、となんとなくの結論には至ったものの、腰が重かった。
が、東出さんのワークは、なんと言っても、面白い、楽しい、最高!だった。
夢は身体の後ろで見るとか、どれがいい感じの人参か持てばわかる、とかそれも「身体はこうやってあげれば自動的にこうなる」という明快さと楽しさ。
ストーリーを設定して、声を出してみて、身体の動きを感じ取る。
5億円を着服した昔の友人を仙台駅で見つけて「あーっっ」という音を出した時の大腰筋や腹筋や仙骨あたりや大腿筋の動き。
そして昔はやつもいいやつだったのに、という時の「おー」という声を出した時の動きの変化。
そして、なんとかなってくれないものだろうかという時の「うー」の音の身体の内部の筋肉の動き。え、と、い、はその間にあるものなんだけど、動かしかた忘れた、(もう一度もう2度やりに行くぞ。)
そんなことをやって身体を「揃えて」あげると、「繊細な違いを感じられる状態」になる。そうなれば、襲い来るチーターから逃げられるインパラだ。あるいは逆でもいい。(ああ、そういえば、昔、ちゃんと逃げることができたことあったな。襲うじゃなくて逃げるを先に書くのが私の心性だな。)
そこを触ると、身体がそこになる、という仕組みも面白かった。うでの骨模型の「その部位」を持つと、自分の同じ部位が実際に支えるようになる、とか、ボールを内側から手を張って持ち上げると、骨盤を内側から張っている状態になり、介護の時に寝てる人を簡単に起こせるとか。
人参も骨を持つのも、なんとなくは感じたけど、本当にわかったかはかなり疑問だったが。ちょっとスピードありすぎだ。人数多いから仕方ない。
ともかく、繊細に感じ取るのがすごく大事。それは感じる。そして、それは、すごく楽しいことだ、って私はわかってる。「こまやか」はそれだけで、ものすごく嬉しいのだ。なぜかはわからないけど。この間野口体操の時に感じた、身体の中がすごく細かく動いているのを感じている時の楽しさ。
サポーターになれば、楽しいことがいっぱいだ。その伏流水は美味しくて、自分の身体がどう反応するかを実験できる。水源に遊びに行って、山で遊べる。ああ、土、林、水!!!!
そして、身体が生き物にちゃんと戻ることで、繊細な嬉しさが来る。
イワシやアトリの群れがざざーっと一斉に複雑に方向転換して、誰一人ぶつからないように、人間も動けるらしい。揃えれば。揃える、とは、折り紙をきちんとたたむようなものらしい。正座や、しゃがみの時も、正しいポジションと方向があって、それが揃っていれば、瞬時に判断でき、誤らない。あんなにぶつかんないのは「普通そうでしょ」ってことなんだろうね。思考するという機能を獲得したゆえに、そのように思えなくなったんだ。あれは純粋に身体の反応で、大脳の出る速度ではない。
あ、だけど、揃えるってどういうことなんだろう。ってやっぱ思う。
じゃあ、大脳は何のためにできちゃったの?
と思ったんだけど、それは「これから」使われる部分だそうだ。そういう話の展開は初めてだ。。。
と、思いつつ。。。
生物の進化は、「〜をしたいがために、こうなった」と説明されがちだけど、実はそれよりも、何かのはずみでこういうものができたのだけど、それがのちにこのように使いこなされるようになった、という方がしっくりくる。(というのも、自分のやってる製本では常にそのことが起こってるので、生きてるってそういうことだろうな、と類推できるから。自分が、実感してきたことからの類推を信頼してる。あまりに類推(=アナロジー)を使いすぎと思ってもきたけど、科学者じゃないからね。なんにでも「繋がり」のアイデアを見つけ出す。科学じゃないから証明は要らないのだから、気楽に、何からもエッセンスをもらってアイデアを出す。
例えば
(これは使わないよな〜)と内心思いながらレザークラフト用の金型をたくさんもらった。教室にほっといたのだが、見つけた生徒さんが「これで箔押ししてみたいです」というので、(まあいいけど、うまく押せないよ、きっと)と内心思いながらやってみる。意外に押せるじゃん。「だめだと思う」は自分の既成概念だったと知る。とか。そういう体験が重なって、これ!?って思ったら、入手したり、行ったりするということをするようになった。なんで欲しいのかわからないけど、買ったりする。で置いておく。そのまま忘れたりする。
そういうことに比べて、あらえびす、の、山形の伏流水は、理由はすごく明快だ。人類の未来がかかってる。ただ私は人に説明できないのだ。ああ、自分は人を説得はしたくないんだね。自分は「勘」で「いい」って思ってるだけだから。)
そうか、大脳はこれから本領を発揮するのだ。
このところ、島泰三さんという人類学の研究者の本を読んでいるのだが、人間はなんで無毛になったのか、という研究があって、副題が「不適者は生き延びる」。
人間に毛が無くなったのは、百害あって一利なしのようなことらしい。そういう不都合な突然変異がいくつか偶然重なったことで「不適」だったものが生き延びるルートが開拓された、というような考え。
自分を楽しくトレーニングしていけば、生き物としての身体が判断力を出しようになってくる。そうこうしてるうちに、もっと大脳の使い方が開発されてくる。そして、人間という奇妙すぎる生き物が出現した理由が後付けされていって、本当に自然って精妙だな、と後で思うんじゃないかな。
地球のおちち、と伏流水を表現していたけど、水で地面とつながるのは最高に思える。
そして、いろいろな現在の社会を変えるこころみがあって、どれにも希望はあるのかもしれないけど、この運動は、自分の身体が嬉しく変わって、その結果よいことになるというのが、本当にしっくり来た。
山形に遊びに行きたいな。行く日を楽しみにしてる。
追記
会が終わった後、仙台近郊在住の友人、佐藤さわさんとしゃべって、御土産買って、新宿にまで帰り着いたのが、11時くらいだったか。だいたいずっと座ってると疲れる?ので、新宿からリュックと御土産の紙袋を持って、8キロくらいを走って帰る。
その時に、教えてもらった脛骨の前の稜と大腿骨の後ろの稜を揃える(つもり)で走り、あ、お、う、とかの音も出しながら感触を味わいながら走ってみた。背負った荷物が加速に使われるかに感じた。「夢は身体の背後に描いてみる」みたいな言葉とか、ともかく、すごく楽しいイメージをいっぱいもらったのだった。あ〜、楽しかった。
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