7月12日からの作品展のDMができた。今回も栃木香織さんと楽しく作った。花が少しだけ咲きだした、くちなしの木に、出来立ての「ノート挟み」を、てぐすで吊るして撮った。
いつも、ちょうどそれに見合った時間しかないという感じがある。その時にできるものができるので、いいも悪いも本当はないんだろうな、と。(どこまで素直に流れに身をまかせられるか。)あと3週間しかないが、まあ、そんなもんだな。
緑の中で撮ったのは、前回からと同じ流れ。本の表紙や本文は、風にめくれたりして、羽っぽいなっていう気分はずっとあって、「飛ぶ本」というイメージはかなり昔からのもの。ちょっとそんな雰囲気も入ったかな。もっとずっと昔の高校生くらいの時の感覚をふと感じたりして。
栃木さん、ずっと手伝ってもらっている津村明子さん、そして、今回は森洸介さんに、レーザーカッターをはじめ、作業をたくさん手伝ってもらっている。
4人チームで作品を作ってる感じ。なんでしょう、物体化する部分をとても担ってもらって、自分はイメージのとこだけをセンサーモードを強めて探る感じ。そのために素材や方法が変わってきた印象がある。
タイトルの言葉は、浮かんできたものを、あまり深く考えずに「これだな!」と使ってみた。口に出して言ってみた時の感じが、好き。
意味したかったことは、透明や半透明の「膜」的な素材が好きでよく使うのだけれど、水の表面ってそれだな、と思って、「みなも」。境目のところで反射がおきたり、向こうが見えたり混ざったり。深さを感じるそこらへんの感じが好き。(アクリル板やアルミパンチング板、グラシン紙、半紙、レース、寒冷紗、少しでも透けるものは全て「膜」扱い。。。)
「あわい」は「間」のことで、いろんなものをサンドイッチするのが好き。層状になってると、美味しくて美しい。膜と膜の間のものもまた膜であって、その層状になった世界は、もう、平面的な「正しい構成」の埒外にある。どう透けて見えるかは読みきれないし、読み切る必要もない。わずかな深度があるだけで、そこは厳密な決め事のある平面世界から逃れた、自由の地。なあんてね。
「淡い」と書いてもなんかきれいで、日本ぽくて、よく思える。
「うた」はよく分からないけど、「おと」を出したい自分なのだった。「みなも」と「あわい」だけだと、ひどく視覚的人間な気がして、私ってそういう者ではないのだけれど、と思って、この音を入れたくなった。そして、さっきちょっと書いたけど、高校生の私は歌が好きだった。ロックをたくさん、イギリスやアイルランドのトラッドや、もちろんなんといっても日本の歌を聴いていた。歌の言葉そして音そのものにびりびりと痺れていて、読むだけの詩にはぴんと来てなくて、やっぱりうたわれる詞が好きなのだった。それはやはり漢字ではなく、うた、と書きたくなることだったな、と。だから「うた」って言葉を入れたくなったんだな、多分。情感を入れたくなった。
びりびりとくる何か。ああ、この人の声、好き。とかね。
自分の作るものが、そんな何かであったらいいな、と。
展示物自体は「ノート挟み」なんだけど、その説明には全くなってない気がする。でも、そう、なの。
実物を見てもらえば「ああ、そいういうこと〜」って、あまりに即物的にわかってもらえると思う。
お楽しみに〜
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