今回のメインの展示品は、ノートや手帳を挟むカバーです。
「サンドイッチホルダ」と名付けました。
表紙は2枚の板(主としてアクリル板)の縫い合わせでできています。その間に何かを挟むという趣向です。普通は装飾に向いていないふわふわやぺらぺらなものも含めて、いろいろなものを飾りに取り込めます。そして、挟むものを構成したら、仕上げの縫い合わせは誰かにお願いすることができます。
つまり、人の力を借りる、ものの力を借りる、そういうことのできる仕組みです。
僕のしているものづくりは「組み合わせ」です。 虎ならぬ、たくさんの人の威を借る狐。そんな、みんなの力を使って、いろんなもの持つ力を使って、倍音を響かせる魔法ができるのならいいな、と自惚れています。 時のあわいにただよってる、ただ、こもれびのように揺れている、その時に美しくて、とってはおけないもの。それを少し延命して、人生の途中のひと時に楽しんでもらえるように、ピンでとめた標本?大事なものをしまっとく場所?を作ります。
僕のところに流れ着いたものたち。
あらゆるものが、宇宙や地球や生き物や人類の歴史の末に「今あるもの」ですね。前の人たちの作ったものの上にのっかって僕たちの暮らしがあります。そうやって、人間は作ったものできてしまったものの「意味」に翻弄されながら、忙しくせわしく生きてます。量子力学や仏教によれば、すべては振動?波動?であって、確固たる存在というのはない、空?らしいじゃあないですか。 僕のやってることというのは「意味」に埋め尽くされて息苦しい人間社会、とくに都会の生活の中で「意味のないこと」を遊ぶということです。人間というものの中に生きている動物体は「意味」では生きられないです。「ただ生きている」ことっていうのは、それだけで楽しくて面白くて苦しいのです。人間はその動物体の存在をほっといて、AIに自分が略奪されるなんて心配してますけど、そういう問題よりも自分の動物体を見たらいいのに、とついつい思います。だって「生きてる」のは頭脳じゃなくて「動物体」だから。
役割を終えたものや、そもそも無意味なものを拾って、それを並べて綺麗に飾る。 そこに、詩とか、意味とかを、ごっこ遊びでつけて行く。「・・ってことね」と。
見立て、とか、枯山水、とか、ききなし、とか。
僕という動物体が見つけて集めてくるものに、僕の人間部分は見立てのようなことをしていきます。無意味なところに意味付けごっこをします。 僕という総合体はそういう癖を強くもっているらしいです。
詩人じゃないから、物で歌いたい。
絵描きじゃないから、物で描きたい。
音楽はできないから、物でリズムを作りたい。
ダンサーじゃないから、物で踊ってみたい。
誰とも似ていない人でありたいという願いが強すぎるから、
「のようなこと」を別の何かで表したい、のです。
2017年7月 山崎曜
板の図面は津村明子さん、森洸介さんの連携で作ってもらいました。何度もやりなおしつつ、森さんにはレーザーカッターで大量のカットをやってもらいました。板を静電気防除スプレーで磨いたり、適度に傷をつけたり、革パーツの製作や、仕上げの縫い合わせなども、全部お二人にやってもらいました。 また、前回展のまとめの冊子は栃木香織さんに全面的にお世話になりました。(そして前回同様、今回のDMも彼女の撮影とデザインです。)
僕は主役ですが、この展示は4人のチームで作った感じがあります。
本当にありがとうございました。
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