先週、週末、教室を終え、ほっと一息。
ここ数ヶ月は作品展準備がぎりぎりで、先々週は作品展で、いらっしゃる人の話や作品についての見解を聞きながら日々過ごし、先週は月曜搬出で、火曜はテンプル大で授業。息子のヒッポのアメリカ交流1ヶ月のホームステイの準備とかと、木金土は通常教室なんだけど、なぜかこのところ、ここ最近なかった満員御礼状態。1レッスンに3人定員なんだけど、基本みんな違うことをやるので、すごく楽な時間もあれば、きつい場合もある。
そして、土曜に、息子が出発したので、本当にほっとして息をついた感じ。
日曜は法事と実家の庭の伸びまくった竹を切る。
で、今日も本の直しのことで来客だったけど、その後昼寝をした。昼寝、本当に必要だった。すっきりした。
それから作品展の始末として、作品の写真を自分で撮って、まだ撮り終わらないけど。
作品展は、楽しかった。
いろいろ学んだことがあるような気がするけど、印象に残ったことをいくつか書き留めておきたい。
まず「計画しない」ということが効奏した。
前のブログでもちらりと書いたのだが、自分の感覚のままに進む、ということを徹底できるやり口を見つけたので、それに任せてみた。すごくピンチだったのに、急に手伝ってくれる人が現れたのが大きかった。やり口を完全に決定したのが多分5月連休後で、ほとんど6月ひと月で作った。そして手伝ってもらっているので、睡眠もちゃんととった。そして気づくとちゃんと目標の40に近い数の作品ができあがっていた。
でも、これは、べつに出来上がらなくってもいい、とも思ってる。目的地を決めてないから、着いたところが目的地、的な。
そんな自分のありかたを画廊のオーナーもすごく見てくれて支持してくれてるのだな〜と強く感じた。なんかものすごく認められていて、こんな育てられかたをしてる私って本当に幸せものだな、と独りよがりに思った。だって、どこ行くかわかんないひとを応援するんだからね、銀座の真ん中で。(いや、どこ行くかわかんないからこそ応援しがいがあるんだろうね。私も、そこにかけてるから、もっと炸裂しなきゃ。)
こういう自分でいるためには「窮屈」はだめ。
極力なんでもあり、な状態においておいて、そして、与えられた条件には、大胆に服従。
服従、っていうと言葉がよくないけど、条件に対して「つまらないけど簡単にはできる」ということを避けて、条件を活かし切る。(リルケ「若き詩人への手紙」の中で、ゲーテの「冬のハルツの旅」をおすすめするくだりで、韻律への大胆な服従、という言葉があった。。。)
というわけで、もう肩書きにつけてる「製本」を取ろうかな、って思った。
今は、「製本アーティスト」なんだけど、そもそも、今回もほとんど「製本」やってないし、なんか「製本」に縛られてるって感じるようになった。
「製本」ってついていたら、製本に関することはできなきゃだめだけど、それ以外はできなくていいと思うから、来る仕事もなんか安心。だけどただのアーティストだったら、あらゆることをしなきゃなんないような気がする。もともとアーティストの人はこんなことを考えるのかわからないけど。
自分は、特に作品が作れるのかどうか、それは疑問。反応だけが命だから。
でもその「反応」に、すごく自信がでてきた。
そう考えると、作品なんかできなくても、反応だけあればなんとでもなる。
私でなければありえないような個性があるらしい。みんなの言葉を聞いてると。
それは、たまたま美人だったってやつだろう。
ただ歩いてるだけで、どうしても男だったら振り返っちゃう、みたいなものをわたしは持っているらしいことに感ずいて、それを利用しようとしてる。(そして、美人っていうのが何なのかは謎だな〜って思うことにしている。美人の人ってどう自分のことを思うものなのだろうか?)
母の影響がものすごく大きい、と言われた。
誰にも似ていないようにしたい、工夫とか。炭酸製造の瓶を活け花に使うようなキッチュなセンスとか。
そういうことを好む母に、もろもろを褒めてもらってわたしは育ったんだね、すくすくと。
写真を使ってみた。
前だったらなんかズル、ってちょっと思っていたけど、全部が自然からのいただきものだから、別にいい。
インスタグラムもやりはじめた。
ともかく使っちゃいけないものは何もない、って思うようにした方が楽しい。
そして、自分が作った、って感覚が半分くらいっていうか、なんかこの個体(=自分)は勝手に作る、って感じるし、人の力を借りるし、ものの力も借りる、でもなんかでてきたものが美人、みたいな感じ。(あ、だけど、美人は男の何割かが確実に反応するような気がするけど、わたしのやってるような極狭い範囲の世界での美意識の共有はわずかな人々でなされてることなんで、わーっ!いいな〜って思ってくれる人はごくごく少ないと思う、でも居る。
そして、もので反応しない人も、言葉で反応してくれたりいろいろだから、わたしもいろいろ出してきゃいい。
なんしろ、みせるに値するか、な〜んていっさいてらいなく見せてみりゃあいいんだから、
そういう全体としての覚悟(?)、「全部脱いで」的な。
恥ずかしいことも何もかも、全身自分(例えば自称アーティスト)だから、踊ったって歌ったって、絵描いたってなんか作ったって、それがうまかろうがへたかろうが、みせちゃうよ、だけが心意気。
まあね、歌うのや、踊るのはやめたほうがいい、って言われるかもだけど。
局所での価値観で、その価値観の中で鍛えられてるかどうか、ってことがその局所業界での判断基準。
ちょっと別世界からながめたら何の意味も価値もないし、理解不能。
局所業界間の疎通のために、理解可能な「賞」とか「社会的ポジション」が示されることになる。
私は美術業界に生きてることを否定はできない。のみならず、どこどこで教えてるとか、なになに卒、なんとか受賞、利用させてもらっている。その上で、
単に楽しくて表現する、なんでもやるしかないでしょ。
どこまで謎の美女で居れるのかを試してみたい。
新しいことを見つけたり、考えついたりして、わーってなるのが楽しい。
そのためには、いろいろ放棄してもかまわないと思う。
実用新案を申請してみようか、って思ったけど、結局わたしには 意味ないどころか、動きをとめる効果かもしれない。(ただ、自分が思いついたことを自由に使えなくなるのは嫌だな。)
思いついたことなんて、誰でも利用すればいいし、ただ、思いついたことについてのある程度の尊敬は欲しいだけ。いや、それこそがよからぬ感情で、そんなのどうでもいいくらいアイデアを出してわくわくして生きれば全然オーケーなんじゃないかな。
花火のようにアイデアを撒き散らして、燃え尽きる、そんなのがかっこよくない?
自分一人で抱え込んだらコントロール不能なことも、他の人が別の感覚でうまく回せば、また出会いがあるだろうし、違うものと出会ったらいつでも新鮮で面白いし、違うものに出会わなくなるってことはありえないから、いつも新しい。そして、それでこそ、「自分」がここに居る感がしっかりとある。関係性の中にある、有機交流電燈の一つの明滅だから。ない、のに、ある、経絡の、つぼ、としての自分だから。全開にすればするほど、しっかりと自分なんだな。全然守らないからこそ、ちゃんと自分があるんだな。
まあ、子供、ですな。それだけで世の中渡っていけたら苦労はないよ、って言われそう。
でも試す。嫌なことできない体質だから。それで生きて行くためには仕方ない。
そんなことを思えた、作品展だった。
次は2018年11月14日から18日。オーナーが決めてくれた。
なんらかの開花にしたい。あるいは炸裂。
あ、そんなに派手でなくても、展開したい。
今日、昔の生徒さんとお話ししていて、このサンドイッチホルダの仕組みはいろいろに使えるけど「ノート挟み」っていう形態は果たしていいのかどうなのかは、かなり疑問と指摘された。ごもっともである。なぜこの形になるか。それは製本からの流れで作っているからだ。随分前に、製本というお母さんのへその緒を切った、的なことを書いた覚えがあるけど、全然まだまだ切れてなかったっていうことの露呈。露呈は必要だからそれはいい。
それと、言葉がいいから、なんかそれを使って欲しい、とも言ってもらった。
ただ単にきれい。それでいいと思ってる。海辺で拾った、波と砂に研磨されたガラスのかけら。
ただなんとなくお財布にいれといて、ガラクタ箱の中に入れていて、それでいいもの。
いやいやそれをなんとか飾りたい。
窓辺、吊るす、開閉する、ゆれる、映る、ブラインド、窓、ついたて、屏風。。。。。
なんかそんなあたりから、もっともらしい飾りを提案してみたい。
とともに、文を併せて楽しむ。
もしかして普通に絵本とか作っちゃってもいい?
なんかいろんな道が見えてる。楽しいね。
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