窓的テント。自然の中に、裸でとけこめる場所。
人間は、毛皮を失った。それがとても大きいファクター。そのままでは、自然の中でとても弱い存在。
昨日、遠藤実香さんと話す。
触れない表面。膜の向こう。
かぎりなく意味遊びができそうな予感。
自然に直接触れて楽しめない?存在なのか?
それとも、毛皮を失って逆に繊細な感覚を手に入れて、それによって思考や感覚が深まっているのか?いずれにせよ、毛物獣たちは自在に闇も草中も森中も自在に、自在につまりもともと一体として生きている。
人間は違う。毛皮を失って、おろおろして、どこかよりどころを求める、か弱い存在。闇も怖い、森も怖い。雨の時はどこかに避難しなければならない。
もともと分離された存在なのだ。
そのありかたと、触れる触れないの関係は?
安定したものでないと、安心して楽しめない。そうすると表面に触れなくなる。例えば、ポプラのもふもふは、素敵に見えるけど、そのままでは「もの」として楽しめない。それがサンドイッチホルダに入れれば、楽しめる。快適な室内から見るオーロラ。
観察する場所として、虫の侵入を防ぎ、自在に寝っ転がれるテントみたいなものが要る。
憧れる、そういう自分を守ってくれる膜。ハイテクでなんとかなりそうじゃないか?こういう膜。
私の遊ぶのは、そういった界隈だ。
だから、今のアイデアをどんどんみんなに拡散して、それぞれの人のアイデアを入れて遊べるようにして、つぎつぎと外に拡散していく。
自分は、アイデアもっともっと外に拡散していく。
だから、まず肩書きから「製本」をはずす。
ただの「アーティスト」になると、「製本」に頼るわけにいかなくなるから、ちょっと怖いのだけれど、そっちに行くんだろうな。
僕は何もできないけど、なんでもできる感。
勝手にやっちゃうことだけが、生きている状態を作れる道。
だから、まさか、そういう展開?って思うけど、アーティストになろう。
そういったものに。もっといい表現が見つかるといいな。凡百の一つと思われたくないからね。手垢が付きまくった肩書きだからね、アーティスト。
(あ、それに、アーティストっていう人達が居る業界じゃ、誰も私のことなど、知りもしないわけだしね。
まさに、「自称」アーティスト、だ、お遊びなんだよ。)
ブリコスターもいいけどね。
日本語だったら?
あわいじん。うちゅうじん。ちきゅうじん。あわいにん。あわいひと。
なんかつくるひと。わかんないものをつくるひと。
ものでうたうひと
ものうたい
ものうた
人がやれることは、どんどん人に。それが勝手に展開するように。
そうしたら、自分のできることができる。
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