2017年8月 2日|ひとりごと|個別ページ| コメント(0)
ぼくは、いやなことから、にげてゆく。
ぼくの、
ぼんくらだって思えていてじつは、ちゃんとかんじていた、ようぞうのように、わざとをみぬく、それとはしらず、むしろにぶいこととじぶんをひげしていたかもなこと、がじつはすごくごくすなおだったのは、やはりおやのそだてかたが、よかったのかな?ありがとう。
きぎょうの、どれいになるのは、ともかくいやだった。ただ、ひとりで、しずかにきをみたりむしをみたりくさをみたりはなをみたりすればそれでよかった。きぎょうのどれいなんていいかたはかんがえてはいなくて、ただきめられたじかんにばしょにいってつくえにすわったりものをうごかしたり、それはいやだ。いやそれすらもよくはわからなくて。
よく、ゆめのように、えいぞうをおもいうかべた。たくさんのひとがあるいていくのとはぎゃくにむかってしっかりとあるいていくぼく。けついはすこしのひろいずむでさびしさのなかにきびきびとしたいきてるかんじがある。
ちっ、としたうちをする。ほこりをもってね。ないようはかんがえない。かんがえたら、ちっ、はなんだかかっこうのわるいだめなものになっていっちゃう。それはただちっ、なんだ。それだけのこと。かんがえたらにげられなくなる。にげなければからめとられる。
おそいようでいてちゃんとにげてはる。にぶいようでいてとろりとなめらかだ。かたつむりのようになんかあのうごきはあこがれだな。あれをおそいとおもうにんげんのあわれさよ。そこからはどうやらだっしたらしいわたくし。
こうやって、かなをならべて、こころでくちをうごかして、おとをあじわっていたら、いらいらしたきもちがどこかへさっていった。
(なんか、やること満載すぎて、やることに疲れるのではなく、満載なことに疲れてるのはいかんと思ったのか、上のようなことを書き始めた自分。漢字が一個だけ残っていたので、それをブログのタイトルにしてみた。多分、どこで、どう遊ぶのかをなにかにつけ模索中。「こんなことをしてる場合じゃなくて・・・」という気持ちは、正しいことは正しいけど、私はやっぱり図と地を逆転させて考えるのが好き。「こんなこと」をしたら楽になって、少し頭が正常になった。
あと、ようぞう、は、太宰治の人間失格の中にでてくる人。名前あってるかな。調べないで記憶だけで書いたから間違ってるかもね。間違っていたら、すみません。)
コメントする