2017年11月 6日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
10月26日から31日まで、香港のブックアートフェスに参加した。
一昨年に続いて2回目。
すごく楽しかった。
「手製本から見つけた、オリジナルな美術的表現」ということでトークをした。 本当は西洋と東洋におけるブックアートや製本、という大きなテーマがあったのに、原稿を作っているうちにすっかりそれが抜け落ちた。あとで、聞いていた人から指摘されて、「あらま、そういえば。」と気づいた。
まったく!、と、自分にあきれつつ、でもまあいい、と思ってる。
そして、しゃべってる最中気づいたことがある。
2014年にアメリカで、作品についてしゃべる、ということを発見。そのとき、あることないこと、が、自分の中からでてきた。ほんとかよ?というような、ちょっといいかげんな受け狙いのようなことも。でも不思議と罪悪感などまったくなくて、楽しかった。そのあと、作品ができたあとに説明(見立てとか)がたくさん湧いてくる感じを味わった。こんなふうに見たら楽しいんじゃないか、というような。語呂合わせとかダジャレもまぜて。
今回、香港でしゃべっていて思ったのは、説明を加えることによって、見る人が自由に見れるんじゃないか、という逆説的なこと。
アメリカ以前、説明を自重してたときは、何かを言うことによって、見る人が自由に作品を見るさまたげになってしまうんじゃないかと思っていた。だけど現実には「これをどんなふうにみたらいいか」っていうことは実は作品単体ではわからないのだ。(どうやって見るのかをみんなが暗黙にわかっている、美術館にある絵とかでない限りは。)どう使うのか、とか、どこが綺麗だと思ったのか、などということを、たとえばこんなふうに説明する、という例を作者が出したら、そこで、見る人と「この作品」とのやりとりが初めて可能となる。作者はそんなふうに感じてるんだ、ということを言葉でわかってもらうと、見る人からも言葉がでてきて、やりとりができるようになる。これが断然楽しい。
実際、こんどの展示でも、ただ見ただけだと、さっぱりチンプンカンプンなものも多いけど、作者本人と話してみると、へ〜、そ〜ゆ〜視点なんだ〜とかわかる。そうすると俄然作品が面白い。ブックアートってかなりそういうことが多い分野だと思う。そう、混じり物たっぷり。まったく純粋化されてない表現だ。
もう一つ、今回の自分のトピックは、20人のワークショップ。
今回は、これぞ「製本」という感じもある、一折中とじのハードカバーノート作り。
当然、道具材料を揃えて臨んだつもりが、刷毛がなかった。実は、前回は用意してくれてたよな、と確認しなかった。だから、もしかしたら無いかもな〜って心のどこかで、備えてはいたんだと思う。
それで、仕方がないので、指で全部塗ってもらうことにしてみた。
全然やったことのないことを、現場で試すのって、かなり好き。
最後の見返し糊入れの作業もうまく行った。指ってかなり、いい。
実は「糊を刷毛で」ってかなり難しいことだ。現代の普通の人はほとんど糊を使わないしさらにそれを刷毛で塗るなんて本当になじみがない。そして、ある程度いい刷毛でないと「よい使い方」の説明もできない。指は触り心地で、糊がついてるかついてないかははっきりわかるから初心者にもかえっていいようだと感じた。
帰国してから、川田順造さんの本を読んでると(今月後半からアフリカに行くのだ!)文化の三角測量と称して、①フランス(西洋)、②モシ王国(西アフリカ、ブルキナファソ)、③日本、を比較してる。そこに道具についての話があって、①では誰が操作しても同じにできる道具を工夫する、②では身体を道具化して使う、③では、ごく単純な道具を個人が能力を磨いて使いこなす、とそれぞれを説明している。これまで手製本やってきて、①と③の間のことがすごく興味深く、いろいろな工夫をしてきた。だが、今回現れた「指で糊を塗る」は、まさに②的なことなのだ、と気づいて、ワーオ!って思った。密かにアフリカに備えてる。なんか全然別の思考が始まってるんじゃないかな、と感じる。だいたいいつも全てはすごくシンクロというか、つられて起こるんだ。
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