2017年11月 9日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
ヒッポのキャッチフレーズの一つに、
「言葉と人間を自然科学する 」
というのがある。すごくよく言い当てているような気がするのだが、それだけでは何か言い切れないものがあるのをずっと感じていた。
言葉は、名づけるつまり、それはこれと違ったなになにですよ、と区別する、分けることによって、わかる、世界がわかるのだ。
科学は、分けて行って理解する態度だ。
その対極を仮に考えたとすると、それはわけない、わからない、ただ感じる世界なんじゃないかな。と拙い頭で考える。わかりやすく、それを、芸術とかアートというふうにして科学の対極に置いてみる。
そのこの言葉「わかんないけどわかっちゃうって感じ。」(注1) これなんだよな〜とおもう。
科学者が分けてくれたおかげで、世界がとてもよくわかる。わかった気になる。
わかっていく、のは、すごく面白い。発見につぐ発見。あるとき仕組みがぱっとひらめく。
これは何物にもかえがたい喜びだ。
(そのうえ、いろいろ構築される。便利。)
だけどわかるたびに、本当はわけられないわからないものを感じることが、抜け落ちていく。 それが、ひどくなって、今に至る。
ことばの「意味」の機能のみが一人歩きする。
速読は、意味をこしとる。意味のみをこしとる。視覚はその機能に長けてる。
「本」というものに惹かれながらも、結局は感触の世界へ行きたがる私は、 やっぱり「ことば」なら、歌のことばが好きなんだ。 書かれた、印刷された、ことばは、楽譜にすぎなくて、 もしも、頭のなかでも、音を再生しない再生だとすれば、それは。。。 だがそうするのが速読だ。
意味に埋め尽くされた、人間社会で、生きるのには、役にたつ情報。
(ちゃんとしたもので構築されてる、世界では、ちゃんとしないと生きにくい。ちゃんと作らないと、飛行機は事故になる。もうちゃんとは行き着くとこまできたような気分。でも、ちゃんとしたひとが作ってくれたちゃんとしたもののお世話になって、遠くの国に時間通りに出かけていって、レッスンなんかもやったりできる。本当にすごい。恩恵にあずかってる。でも。だ。)
分断が極まった今、やっぱりつなげる、あるいはわけない、あるいはわからない、わけれない、わけられない、を私は求めてるんだな、と思う。いつも(そんなこと言ったって、これはこれの中に入るって簡単にはわけられないよ、細かく見ればみるほど。)っておもっている。 だから多重の説明を重ねるのだ。こういうことだし、ああいうことだし、それの間には意味をみたら矛盾だらけ。 多重の説明をすることで、音をたくさんにして、意味を曖昧にする。あるときはこうみえて、またあるときはこうみえる。そういう世界の実際の、本当の、あたりまえ。
すがたをかえないものはない。
科学にできないこと。
観察は好きだ。vivencia。ヴィヴェンシア(注2)。相手が、生きてるのをかんじること。
観察をやまとことば(?)で言ったら何か。 検索をかけてみる。
観、はみる。
察、は、おもいやる、と出た。
いいんじゃない。おもいやる、か。
みる、かんじる、おもいやる。
かんじる、は感、だから、漢字だね。
だから、みる、おもう、やる。 やる、はなんだろうね。わかんない。ただ、やる。する。やる。する。
その違いはなんとなく、いる、と、ある、に、にている。
そうして、そうやって、やる、する、やる、する。
ということが、わかった。 まあ、いいんです。それで。
「わかんない」をやってくつもりだから。
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注
1 ヒッポファミリークラブの、多言語音源ストーリー『ヒッポ海を渡る』の主人公「そのこ」がアメリカに1ヶ月のホームステイに行っているときに日本に送る手紙の中で書いている言葉。ひとつひとつ言葉の意味はわからないけど、感じで何を言われてるのかはわかる、みたいなこと。こう書いてしまうと、全然味わいがないけれど。
2 オンラインで、コロンビアのホルヘさんに、NVC(非暴力コミュニケーション)を習った時に、ホルヘさんの使う概念。私は自分で曲解かもしれないけど「その人の中にある、生きている思いみたいなもの」と感じていて、表面に現れた意味の言葉の背後にあって気づかれにくい本当の思いみたいなこと、かな。
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