2017年11月 9日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
昨日は、秋田公立美大で授業。今年は、綴じだけを重視して5種類やる。
(載せるのにいい写真がなく、学生さんに配ったプリントを載せてみた。露悪趣味か。イラレとかで図を作るのが面倒になって、今回は、えいやっ!と手書き。これから生ける化石になる予定の私はむしろこの路線だな、と。⑤の綴じ方は、オリジナルだよ。)
それと糊で紙を貼るのやりたかったけど、やりかたを見せるだけになっちゃった。
そのあと、個別に相談したい人の相談を何人か受ける。
別れ際に、助手さんと話して、
はからずも「いいわけを考えるのをやめて、ストレートに、無意味なものを作ってみたい、絵描きさんみたいに」と言っている自分。
「いいわけ」とは、使えるものを作るということ。ノートのカバーとか、楽譜挟み、とか、一応機能を持ってるものを作るのが、ポリシーというか、「アート」とはちがうんですよ、というスタンスというのかポジションというのか、だったのだ。いろいろないいわけを考えるのは楽しくもあり、別に自分を卑下してるわけじゃあ全然ない。だが、随分前から、アーティストの前に「製本」をつけてるのも、それとるのが怖いっていういいわけなんだよな、と感じてもいた。
午後の授業で個人相談をしてくる学生さんと話して、その話を横で聞いていた助手さんが「面白かったです」と言ってきて、わずかな時間だったけど、話したいことが止まらない感じだった。(その結果でてきた自分のことばが上のようなものだった。)
そもそもの相談の学生さんとの話は、封筒に紙の工芸的な模様をつける、ってアイデアで、担当教官からは、趣味のおばさんの作、と、ならないために、プロダクトの完成度をあげて、と言われてきた、という。で、先生(私)はどう思いますか、と。
手工的にせよ、機構を工夫して、完成度を上げる、というのが課題に対しての答えではあるけど、もうちょっと俯瞰してみると、そもそも、そういうこと(つまり、なんというか、きれいにプレゼンするのがあたりまえなデザインという世界)をずーっとやってきたために、今の苦しい社会ができちゃってるんじゃないの、というのがある。
僕は、直角をきっちり出して、そこを基準に作るというのをずーっと、ある種得意げに教えてきたけど、それはある程度量を作る時に楽で便利で、揃ったものができる、ということのため。まっすぐで揃ったサイズのきゅうり、いらないんじゃないの、って言いながら、自分のやってることって実はそういうことなんじゃないの〜って急に気づいてきた。この自分のプロダクトの大前提、疑うことがなかった大前提は、すでに疑うことが可能なものになってきているのだ、現在。(だから、多分、アフリカにも行くのだ。)
自分、今、何してるの?って考えるのって楽しい。やってることを観察して、「ああ、そうなってきたんだね、自分」って。
それは、誰かと話すと、自分が相手に対して話してることからわかる。ああ、そういうこと感じてたんだな、今の私、って。
で、学生さんには、綺麗に作る、(そもそも、綺麗、って何?とも思う)という方向性ではなく、(「綺麗」は、現代の場合、量産を簡単にするためにできた形を、みんなに「いい」って合意させることによって、そうじゃないものを売れなくして、量産=経済活動を回す、の中に組み込まれる、っていう面もとても大きいと思う。) そう、綺麗に作るっていう方向性ではなく、綺麗でないかもなのに、惹かれるものがある、おばちゃんが作ってるのだけれど、なんかいい、そこにこそ本当の人間の作る魅力がある。いやいや、ここのところはわかんない。微妙。(でも、とりあえず「綺麗」はデザインとか美術の大前提。色の面を綺麗に塗りなさいとか。しかし、これから出られなくなってしまうことがとても多いと思う。今、日本で作ってるものってそういうもので溢れている感じ。)
声美人ならぬ、紙美人、みたいなことになるのか。あるいは、受ける人それぞれにいい、って思うものがちがうのか。魅力に群がる人が多い、ってどういうことなんだろう。生き物の仕組みなんだろうけれど。なんで美人とその他がいるのか、っていうことだよ。スターが現れちゃう、ということだよ。
というわけで、次の個展では、無意味なものを作る。自分が綺麗と思うものを素直に。綺麗で美しくて面白い、って思うものをいいわけなく、作ってみたい。(あれ、さっき綺麗はだめ的なこと言ったくせに?)
あ、元生徒さんから言われたのものあるな。ノートカバーもいいけど、重くなるよね、使いやすくはないでしょ、みたいなこと。それはわかっていて、微妙なところなんだけど、そこでは「アート」持ち歩く楽しみとして、と「いいわけ」してるわけ。そこ悪いとは思ってなくて、そこ、が私の皮肉というか、個性というか、そういうものとしてエンジョイしてくれる人に、と思ってきたのだけど、やっぱり指摘には少し凹む。その凹むことは、上に書いたように「いいわけ」という表現を使うことに現れてる。いいわけを楽しんではいるんですよ、それは事実。でもやっぱり、いいわけ、だとは思ってるのでね。一度それをはずした、いいわけしてないものを作ってみたいでしょ、って思うようになってるわけだ。
たとえば、アクリルを使うのに、傷になるから初めから傷をたくさんつけておく。そういうのもなんか「いいわけ」感があるんだよね。強化ガラスみたいので、窓わきに置くものを作りたいなあ。ガラスなら傷はつかないし。真っ平らなガラスでなくてもいいよね。手作り感のある、板ガラスで表現。ああ「おおガラス」って分野でのバリエーションを作りたいのかもしれない。はたして、その重さとかが、自分の感覚にフィットするのかはわかんないけど。(単にペアグラスの中になんか入ってる??)
あ、だから「綺麗」じゃなくなるかもね。でも『魅力』だったらいいけどね。
(綺麗じゃ、と打とうとして、切れ痔や、と。しりからちをだすのかもね。しりからちからをだすのかもね。)
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