今日の夜からはいよいよ、
UMUの講座の受講が始まる。
毎日少しずつUMUで出された課題をこなしながら、週一でzoomでミーティングして振り返る。
実は、友人、
スギオカカズキさん達のはじめた「
自己組織化する学校」UMUキャンパスのUMU講座の推薦文を書かせてもらい、それがきっかけで0期、1期と続けて受講していた。「UMUというアプリでオンライン講座を作る」講座。だが、いまひとつぴんときてなかった。
多分、合計6週間くらいもやもやしていたんだと思う。
前から、オンラインで製本をおしえられないだろうか、とは思っていて、
でも、どうやって?なんて思っていた。
それが、ここにきて、私は「整理したいんだ」と気づいてきた。
たまったものを吐き出して整理したいんだ、と。
「どうやって」じゃなくて「なんでやりたいのか」が、ちょっと、わかってきた。
そして、具現化するためにはチームが必要だよ、
というスギオカさんのアドバイス。
確かにそうだ。自分一人じゃ動き出せない。いままでもそうだった。
そして、気づいた。あ、この人とこの人に手伝ってもらおう!と。
実は、「なんでやりたいのか」はちゃんとはわかってない。
なんとなくこっちかな、ぐらい。
だけど、この件に関わってもいいよ、こうしたらいいんじゃない?ってことがあるよ、
という生徒さんが相手に居るので、展開してくることがあるはず。
(ひとりだと、こういう考えすら、でてこなかった。)
それが、今日(6月24日)夜から始まるのだ。。。
整理したい、から、講座、が、成り立つのか?、は、よくわかんない。
でも、あり、なような気はすごくしてる。
教室を始めて20年をすぎ、著書が出てから10年が過ぎた。
溜まったものがある。
次の技法書でないんですか?と時々言われる。
(確かに、また著書を出せたら、嬉しいかもだけど、あれはやりきったからもういい。)
技法書は、現場で見せたらすぐわかることも、図や文字という平面に落とし込まねばならないので、作成にも解読にもすごく労力と時間と忍耐を要する。(その分、出来上がってる本は嬉しくて、かっこいいけど。)
読むのが苦手な人も多い。
現場で見せながら真似してもらうことで伝わることは、多いけど、意外に伝わらないこともある。
動画はすごい。だけど必要なところを探すのに時間がかかったり、せっかくみたけど良くなかったり。
教えたり、習ったり、ってけっこう複雑なことが起きてると思う。
だから、今できてきた、新しい学びの仕組みを使ってみたいと思う。
今の世の中で、手製本ができたから、こういうふうに仕事になります、っていうことは、ちょっと言えない。
私は製本教室でお客さんにいらしてもらえていて、それは「本」という括りがすごく機能してるけど、それだけじゃないと感じてる。
アートのように単体で成り立たない分野。依頼があって発動する。関係性からしか生まれてこない。多分そこがいいとこで、「よくわからない」「説明しにくい」はすごく可能性がある、って思う。(そして自分は「アートのように単体で表現したい人」である。。。)
スパッとヴィジョンが見えないところが、いいんじゃないかな。
自分は学生の時、平面構成が苦手だった。紙の面を全部べた塗りの面で塗り分ける。
厳密っぽい2次元の世界。かすれとか塗り残しを使うと、私の画面は生き生きして、嬉しかった。
枠は決まってるけど、奥行きがある表現。
奥行を感じてしまうから分類ができない。
枠があるから、そこから出られる。
UMUという枠自体には、いまひとつピンと来てない。
だが、今、自分は枠を求めてるのだろう。
学校にしろ、学ぶということにしろ、枠を設定してもらって、
窮屈を感じて、
そこからどのように出るのか、という促しをくれる場所なんじゃないか。
いつも、ここじゃないところを求める私。
「ここ」っていうところがあるから「じゃない」がある。
アートっていうのがあるから、アートじゃないもの、本に。
本っていうものがあるから、本じゃないものに。
と、どんどん枠から出るのは、ものすごく、まっとうなことなんじゃないか。
だから、私の考える、手製本の「枠」「枷」を作る、すなわち分けて、工程をはっきりし、学べる形にするのは必要だ。自分がもう、整理しないと我慢できない、となってるからやる。(ウェブに形があれば、海外の人とも簡単にやりとりできるし。)
まあね「本」を、ますますあこがれの存在にしていきたい。
でも、その「本」からも、かっこ良く距離を置きたいと思う私。
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