いまは、 UMUという、オンラインラーニング?のアプリ?ソフト?システム?の講座を、教室生徒さん2人と受講している。
zoomでオンライン講座を受けるというのが、この3年くらいの日常になり、それはとても楽しい。(単なる楽しいというよりも、いまの社会で問題を感じている人たちが集まっている場、と感じてる。)そして、自分のやってる手製本もその仲間に加われたらな、という思いは、結構初期からあった。
場所や道具や素材という制約に支配されてる「物作り」ということが、場所から自由になったらどうなるんだろう、と思った。
そしてそれがべつの何かを生むかも、という漠然としたイメージ。
すでにベルギーの人がオンライン製本相談やってる、とか、中国の人がオンライン製本講座やってる、とか、そういう話も聞いてるし、YouTubeには多くのbookbindingの動画がある。
検索すればただでやりかたを知ることが難しくない。
が、自分の講座は進展しなかった。
が、ここに来て、生徒さん二人を巻き込むことで、動きが出た。
スギオカさんの提案だった。
とともに、実は今、自分は整理がしたいのだ、と気づいてきた。
前の自著が出てすでに10年。その間にいろいろの気づきとかあるんだが、それをまとめる機会がなかった。
本の企画が作れなかった。
自著「手で作る本」と「もっと自由に!手で作る本と箱」でわかったのはマニュアル化できないってことかな。
自分が面白いと思う作例を作るのは、勘でやってるから、起きたことを説明はできるけど、何かを代入して使えるようなマニュアルにはできない。素材を少し変えたら別の展開がしたくなるから。
だから、この10年で、整理をどんどん放棄してきたと思う。
現場対応を磨いてきた、と言えば聞こえがいい。
その結果、ものが溜まり、ちらかり、ともかく出したくなった。
製本習うとしても、決まった形のものを通り一遍に知ったとして、すぐに使える技術や判断力にはならない。
結局、自分にできるのは、こうやったらこうなった、という実験ストーリーを紹介していくことなのかもしれない。
そしてそれは、細々したいろいろがありすぎて「本」の形をした教科書だとしたら、書ききれないのだけれど、ウェブならば、動画ありテキストあり、ライブ中継あり、と時間的にも空間的にも種々のものにリンクできるので、なんか謎なネットが構成できて、迷路に迷い込むかもしれないけど、理解の一助にはなれるのではないか、と、感じてる。
全部にリンクしてるもわーっとした大きな塊。
製本の本じゃなくて、製本の系。製本の時空。そんなもの。
自分の知ってることをぜ〜んぶ入れ込む。
教科書技法書を作ってる時は、限られた紙面の中でいかに表現するか、ということでギリギリと詰めていって、洗練とか明快さ、美しさを表現したけど、それは分かりやすさとか伝えたいことにとってすごくいいかっていうとそうでもない。
いまの課題は膨大なものの配置、階層構造、順番、選択などをどのようにして、ルートを設定するか、みたいなことだと思う。
いかようにでもルートをとれる山登り、ってちょっと思った。
みんなが歩いてるルートを間違えずにたどって、ピークハントをする、もあり。
同じルートなんだけど、周りの花の写真ばっか撮って、下山する。
全然歩かれてない山林も「ある」ということが示唆されてる。
新ルート開拓。
そんな妄想が膨らむ。
誰にでも歩きやすいルートなんていうのはないのかもしれない。
しかし、私にとってのベストウェイは常にその瞬間に確かにある。
結局は、教える人の方を向いてるのではなくて、物に向かってるだけ。それがいいような気もする。
人に強制したくない。が、ここもちょっとしっかり考えるとどうなんだろうな、とは思う。
私は手製本に関しては弟子をやった。弟子の最初の一年間はストレスフルだった。それがあったから今の私があって師匠にはすごく感謝している。(どうあっても、師匠のやる技術を飲み込みたいと、身に着けたいと思っていた。だがストレスフルだった。)
私の教室生徒にそれを味わわせる気にならないのは、お金をもらってお客様として教えてるからだろう。
嫌われたくないから、押し付けないのかもしれない。
何かを仕事にする、ってなんだろうなぁ。
普段すごくだらだらしてるけど、なんかそこに矜持的なものはないとは言えない。
あんまりきびしくされたくないから、はっきりさせてないし、うまく言えないけど。
物や条件そして自分をなんとかしてフィットさせる、ということが、美意識かな、と思う。それに反するルートは良くない。
自分のいいふうに思うルートを示す。それを見てもらって、嫌なら嫌、ここはだめ、みたいな反応を尊重する。
誰もが自分の「いい」と思うルートがいいに決まっている。
だからそれを尊重する。
だけど私の示すルートの方がいい、と思いながらそれができなくて忸怩としてる場合がある。
そして、自分は全体につながっている、と感じていて、ただそれがまだ自分にわかるようには顕在化しない。
自分自身の内部で世界全体と自分がどうつながってるのかを見たい気持ちがある。
手製本(から始まった何か)をやってることが確実につながってるとは感じるのだが。
手製本をやっているのは仮の姿、だとは思わない。
こうして起こってしまっていること(つまりオンラインで講座を作ってみたい)
は、手製本をなんとかしたい、というだけじゃないことがある。
自己組織化する学校UMUキャンパスは、今問題噴出してしまっている学校とか社会のことをなんとかする、抜け道?いや新ルート開拓?の意志を持った人の集まるところ。10月からは通信制の高校も始めるようだ。
学ぶとか、学校、っていう言葉は好きでないが、新しいことを知ったり考えてみたりするのは好きだ。
コメントする