このところやっていることは「動画」だ。
昨日、おととい、と、教室夏休みを利用して、うちの教室の入門編カリキュラムの工程を説明をしゃべりながら撮っている。(っていうか、生徒さんやら元生徒さんやらと、がやがやしながら、撮ってもらったりしてる。)
2015年にオンラインでのミーティング、そしてそれを使った講座を受講する、ということに出会った。
最初は、ともかく、ミーティングそのものが楽しかった。(今、思い出した!大学生(いや、正確には予備校生)になって「飲み会」っていうものが、ただただ楽しかった、あの感覚だ。お酒を飲むとうきうきして、打ち解けて話すのが、ものすごく楽しかったなぁ。今は、お酒を飲まなくなった私だけど。)
自分もオンラインで講座を主催できたら楽しいだろうと思った。その思いは初期からあった。
だけど、「製本」って実物を作るし、やることが煩雑だから、簡単には行かなそう。
だから「やりたい」「やる」って言っていながら、全然進行はしてなかった。 それが、「オンライン講座の作り方」の受講から、成り行きで、とりあえず、プログラムというのかコースというのかができてしまった。(意志薄弱だが「乗り」はいい私。出不精なくせに、誘われたらアメリカにも中国にもアフリカにもひょいっと行けてしまうのが、自分でも不思議な、妙な特徴。講座も教室生徒さん二人に声かけして一緒にやることにしたら彼らの力に乗っかってできてしまった!)
この最初のオンライン製本講座として作ったのは「折帖」というスタイルの製本。御朱印帳によくある蛇腹折りのつくりだ。 これは、ここ数年、自分の教室でも、大学で教える時も、最初にやってもらうものだ。
あるとき「これに全部入ってるな〜」と感じて、そうやりだした。
「糸でかがる」ということが入っていないが、それ以外の手作り製本の重要ポイントが網羅されてる感じがする。
で、オンライン用にもまずはこれだなと。
しかし誰に向けて作ってるか、というと、よくはわからない。
どういうターゲットに向けて、というのは、実はあまりない。(普通、これは、ダメなことだと思うが、今自分は、ダメではない、という確信がある。)
普段リアルで教えてるときに、なんか言い尽くせ無いというか、伝えきれない感じがある。 それに対して、動画とテキストを組み合わせると痒いところに手が届く。 そういう意味では、リアルの生徒さんに向けて作ってる、とも言える。 動画を細かく撮って、全体が出来上がっていくにつれて、ああ、これも重要な基本だな、と、付け加えが増えて行った。 言いたいことを端折らないで言い尽くせることに魅入られて、自分の「説明したい欲」によって、全部作ってしまった。
ここに、実際にお客さんが集まるには、工夫が必要かもしれない。
それはこれから考えて募集かけて、実際やってみてからまた考えればいい。
まずは、言いたいことを言ってみた、っていう爽快感がある。
自分の中に芽生えてきた希望としては、マニアなことが、普遍的なところに繋がって行けるかも、ということ。
自分が好きでやってることが社会と繋がってることは、自覚できないとしても事実ではある。
だが、本当に意味があるのは、 それを普遍的な言葉で言い表そうと努めることだと思うようになってきた。
オンラインの講座は、いろいろな人に開かれている場だ。 いままで「手製本」ってちょっと興味があるけど、習いに行ってみるほどではない、と思っていた人にも、開かれている。(自分のことを考えても「ファシリテーション」って言葉すら知らなかったのに、ちょっとしたことで興味をいだいて講座を受講してみたことがある。)
いま、身体のことについて講座を受講中(これはオンラインではなく)なのだが、そこで先生としゃべっていて、自分の製本の動画もチラ見せしたりして「なにかを作るときや考えるとき、かならず、合理的な手順とかきまりがあるよね。それは普遍的なことに通じる」というように言われた。 自分が次々と「これも基本、これもほんとに説明が必要」って付け足して行ったことが、普遍的なアプローチにしたい、という気持ちの表れだ、と思った。
具体的にいうとこんな感じ。 どうやると、紙をまっすぐ切れるか、を考えて行ったら、カッターの持ち方はこうがよくて、その理由はこれこれ。 そこから考えていくと、座らないで立って作業するのがよくて、立ち方はこういうのがいい。 というような、本当に基本的なことを明らかにしていく講座。
例えば、こんなの、でできてます。
これは、本当に自分にしか作れない講座。なぜかというと私は美術は学校(まあ、大学では放任されてたから主に予備校かな)で習ってしまったけど、製本は(最初に多少は学校で習ったけどその割合は少なくて)弟子をやりながら仕事で身につけた。だから、教えるための直接的なお手本がない。教室を始めた時、一つ一つ自分で考えながら、やりかたを開発していった。発見の喜びがあるので、やりかたの一つ一つに愛着がある。
手製本にそんなに興味がなくても「山崎曜」に興味がある人が受講してくれないかな〜。(いるのか?そんな人)
いやいやそんなことよりも、「製本」という実体から、「本」、とか「書かれたもの」「文章」、っていう方に向かって触手を伸ばしていくのも、とても面白くて、可能性のあることだと思う。
「情報」というものばかりの行き交うネット世界。本の中にある言葉も、同様の「情報」にすぎないことも多い。 書き言葉について、空虚さを感じてばかり。そして音声としての言葉の肩をもつような気持ちがあった。 だけど、それも違う。音声である言葉にしても、書いてある言葉にしても、発した人と受けた人の間に活き活きとしたことが起きてればそれは、空虚でない。「誤解」「すごく伝わった感がある」かどうかに関わらず、何かが揺り起こされれば。
ごく最近、言葉、ということについて、大きな肯定感をいだきはじめた。
多言語をやってると「その言語には、このことを言い表す言葉がない」ということはよくある。この感じは、この音、この言葉でしか言えない、のだ。それは、個人の使う言葉においてもそうだ。同じ単語を使っても、状況によって意味は違うし、個人個人で微妙に意味の範囲は違うだろう。僕の見えてるこの青が、君にも同じ青かどうかは、不可知、なのだ。
だけど、普遍はある。
そして、普遍そのものは言葉にはならないもので、「生き物として、それは普遍とわかる」こと。 言葉にならないけど、普遍に届こうとする言葉を発する必要がある、そんな感じ。 普遍に届こうとする、とはどんな感じかというと、自分の中で極力厳密に、こう言うのが正確だ、という言葉を使うこと。正確、とは、感覚的にこれだ!、ということもそうだけど、むしろ自分の理路をきっちり通す、ということ。 こうして出てくる言葉には大切なことがあるに違いない。
その第一歩目として、自分の「折帖」講座がある。なんかそんなつもりになってきた。
講座の告知は、しばしお待ちを。近々です!
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