2021年2月 1日|読んだ本|個別ページ| コメント(0)
zoom音読で、読み終わった本『ひみつの王国 評伝石井桃子』(尾崎真理子著、新潮文庫)。
去年の9月9日に読み始め先日1月21日に読み終わりました。
4ヶ月半かかりました。この本は、このようなスタイルでの音読でなければ、私は決して読了することは無かったと思います。
これだけの、書簡や証言の引用の見事なコラージュを読み込むには、相当の粘り強さが必要だと思いました。
そして、もちろん、私に残るのは、この本で石井桃子さんの向こうに透けて感じられる「ひみつの王国」ですね。それはなになのか?
この「王国」は、こどもならば、必ずそこに居るところ、かな、と思います。
大人である自分は、見えなくて、かすかに空想するだけになってるところですね。
大学生の時、三木成夫先生の「生物」の授業で習った「食と性の位相交代」という言葉が思い浮かびました。食べて成長して、成熟したら生殖する、ということだと思います。大人になる、というのは生殖の相になる、ということですね。
もう「成長」の段階とは、全然別物の状態になっている。
三木先生の著書『胎児の世界』の中に、ゲーテの絵を三木先生が模写した絵があります。
バラだと思うのですが、一旦つぼみが開いたら、また中から茎葉が伸びてる、という図。
それに響いて自分が描いたハガキ(1990年代?の年賀状)の絵を貼っておきます。バラではなくハスで、しかもヤママユガのオスの触角と吹流しが生えてますが。。
ゲーテの図は、私には、妙に美しいんです。
大人になっても「ひみつの王国」にアクセスできてしまう、ってもしかして、その図のようなことかな、と思いました。
そして、それは生物の世界では奇妙なことですが、人間という奇妙な生き物の世界ではしばしばあることで「いのち」へ繋がる通路の一つかな、と感じます。
というような観察は「美しい」としても、やっぱり、外から眺めた感じですね。それがこのハガキの絵に現れてるように感じました。20代ってそうかもしれない、って50代後半で思う私です。
小学生の時に「ナルニア国物語」の魅力に憑かれていた私は「本の中にある世界」(これが、ひみつの王国、の一つかも)に行っちゃっていたことがあったのかもしれない、という気がします。
そのリアルな記憶はないのですが、現実の学校生活が、とても嫌だと感じていた、ということはかなりあったので。
この「世界」は、なんというか、こころ安らかに感じる面と嫌で恥ずかしいと思う面と、が両方あるような気がしています。(著者が、この本の表紙にヘンリーダーガーの絵をもってきてるニュアンスがわかる感じがするのです。。。まあ、ダーガーは恥ずかしいって思ってないかもだけど、人には見せてはいなかったのだから。。思ってたかも。。。)
こういう「世界」を、本の中に持つことが、いいことなのか?
でも、いいわるい関係なく「ある」んですよね。人間っていったいどうなってるんだろうなぁ、と強く感じます。
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