コロナになってからだろうか、その少し前からだろうか。チョムスキーの生成文法が気になって、ヒッポの仲間と輪読をしてきた。(末尾の別記参照)
毎週、LINEやzoomで集合して、声に出して読み、ゆるゆるだらだら感想をシェアする。
『統辞構造論』を読み、原著の『Syntactic Structures』 を読んだ。毎週、わからないわからない、といいながら、少しずつ用語には親しんでいった。ヒッポ仲間とこうやっていくと不思議とわからないことも楽しいのだ。
ヒッポには「共同研究者」として強力な協力者、酒井邦嘉先生がいる。先生の『チョムスキーと言語脳科学』ももちろん輪読した。この本は『統辞構造論』の解説にたくさんのページを割いてくれている。出版されたとき、これでわかる!と思ったのだが、なんだかそうでもなかった。どういうことなんだろう。
そこへ、酒井先生の『チョムスキーを読む』という願ってもない講座がこの4月から月1ではじまった。一も二もなく受講決定。
その内容について、とか私の理解がどうなったかについてはまた機会をあらためて。
酒井先生はMITでチョムスキーに直接教えを受けられているので、実際どんな人なのかそんな小話?が毎回すごく興味深い。
先回はこんな話。
酒井先生は断捨離も好きで、整理も得意だけれど、時々しまった場所を忘れて困ることがある。チョムスキーの机は書類や本がうずたかく積もっていた。おそらく、彼はそこから必要なものをやすやすと探し出すことができたんじゃないか。
というのだ。
整然と整理されているよりも、乱雑に(つまりある特徴をもって)置かれていた方が体感的に印象が残るので、探し出しやすい。
ひとつにはそういう話だ。
もうひとつ私自身が思ったのは、本人にはとっては整然とした論理で並んでいるものが、他の人にはわからない、という話。
チョムスキーの文は長くて、あれ?何が主語だったっけ、どう入れ子になってたっけ?って私は迷子になってしまう。脳の記憶容量が小さいので、文が長いと構造をしっかり掴んだまま最後まで行けないのだ。
乱雑な机を丁寧に見ていけば、何らかの手がかりがみつかるであろう。ましてや文章にはしっかりとした論理があるのだから、考え方の特徴に親しんでいけば、迷わなくなって楽しく歩けるはずだ、と希望が持てた。
そこで思い出したことがある。自分の製本教室の棚だ。
最初、適当な缶にマジックで道具名を殴り書きして使っていた。そしてちゃんと使えていた。
現在はこんなに整理されて、分類されている。
こうなってからもう20年くらい経ったと思うが、便利そうに見えて、意外と道具を探しにくいし、戻す時に間違えることもあり、そうなると探し出すことができない。箱や札に特徴が無いのが大きな原因とわかってはいた。それで絵を描こうとしたり、大きな字を書いてみたりしたが、効果は感じられなかったのですぐに放棄。
今回ちょっと思いついた。
何か缶が手に入ったら、それを使ってみる、ということ(すでにそうなってるところもあるけど)。
その缶のイメージに合うような(そんなのあるか?)道具をそこに入れてみる。すると、そこにストーリー的な分類が現れる。なんかイメージだけ、夢っぽいことを書いたな。
わかりやすさもわかりにくさも楽しいような、やや乱雑な道具棚が作ってみたいなぁ。
道具を語るYouTubeも作ってみたいと思っていて、そこにも繋がっていくといいなと思っている。
別記:
私には、仕組みを知りたい、という強い気持ちがある。どうなってるのか。それをどう説明するのか。その説明を味わってみたい。
そういう観点で「自然科学」ってなんだろうか、というのもあって、言語学に自然科学の姿勢で取り組むというチョムスキーのやりかたは、是非とも感じて味わってみたい、と思っているのだ。(スポーツ好きな人が、スポーツの試合を味わうのと同じ、となんとなく思ってる)
そして、生成文法の理論は現在はミニマリストプログラムだったっけ、たしかそういうふうに変貌を遂げているんだけど、そこに至るストーリーをじっくり味わって行きたいと思ってます。
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