先日、妻と、前々から行ってみたいねと話していた、熊野古道に行った。
印象を箇条書き的に書き留めておきます。
「熊野古道」と名付けられている道の総延長は1000キロもあるらしい。
そのうちの、中辺路の大雲取越、という十数キロをメインに歩いてみた。
ガイドブックには「登山というほどではない」などの文言もある。確かに道幅は広いし、石段はしっかりし、道も固められてぬかるみも少ない、が斜度といい、熊出没、という看板といい、まさに登山だった。
全荷物をしょって歩いているので、気分は「縦走」である。
何箇所も「茶屋跡」という地名があり、こんなきつい坂の山中だが賑わっていたのだな、とわかる。この茶屋はいつまであったのだろうか。どこも特に遺構は見当たらなかったが。明治に廃仏毀釈があるまで、あるいは鉄道とか道路が整備されるまではあったのだろうか。
石仏もいくつもあったが、ほとんどが苔むしたり表情もわからないくらいに風化したりしていて、信仰が生々しかった時期がずいぶん前だったのだな、と感じた。
これは、一面六臂に見える。検索するとこういう姿をしているのは、青面金剛かな?と思う。
熊野の信仰の起こりは古くて特定できないみたい。那智の滝はとても美しくすごくて、これは確かに信仰の地にならずにはおかないだろうな、と思った。
上皇による熊野御幸というのが、熊野詣の起源と知って、帰ってきてから、その関係の本を図書館で予約してみた。
藤原定家が後鳥羽上皇(1180~1239)の熊野御幸(熊野詣)の随行した旅をした記録があって、その解説をした神坂次郎著の本を見つけたので、それもみてみよう。定家のひどい苦労が描かれているみたいだ。
後鳥羽上皇の前の後白河法皇(1127~1192)は34回も熊野御幸をしていたそうで驚く。
どういう意図があったのだろうか。熊野と結んで鎌倉幕府と対抗するとか、政治と宗教が一体となっていたことは確かだろうけれど。
那智大社に模写が展示されていた『
那智参詣曼荼羅』は見飽きない絵だった。ここには海に送り出される補陀落船も描かれている。これは生きたままの葬送というかんじの儀式らしい。乗り込んだら外から釘をうち、窓も何もなく、30日程度の食料と水だけ積んでいた、という記述もあるみたい。想像できるが想像したくない儀式。どうしてこういうものがあったんだろう。
もともとの原始からの信仰の地に、修験道も神道も仏教も入って混じって、いろいろに分化して、できあがった複雑なストーリーがちょっとそっとではわからない感じが、すごく興味深かった。
こういうのを感じたことは、いままで無かったな。
速玉大社では、祀られている神さまたちの名前がほんとうにずらり。それぞれ経緯があってここに祀られているのだろうけれど、その沢山さに驚きました。
明治の廃仏毀釈で信仰はいったん解体し、20年前の世界遺産指定で、沢山の人が再び訪れるようになった。宗教は私が成長した時代(1960~70年代)と場所(東京)では、ほとんど目立たなくて、私は信仰(だけでなく地縁とも)無縁に育ったと思う。
神社では賽銭し2拝2柏手はする私。感謝だけをし、何も願わないようにしている。礼は気にするけど何も頼まない。触らぬ神に祟りなし的な臆病な信仰心ですね。
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