先週はラフターヨガ。今週は、瀬戸嶋充さんの、声と体のワークに行ってみた。
意識はできないのが、体が動きたがってるのかな。春を迎える体になろうとしてるのかな?瀬戸嶋先生は、まだ春じゃあないからね、と言っていました。(でも、うちの庭では、貝母がすーっと出てきた。下の写真。)
先週のラフターヨガは、去年福島ラーニングジャーニーでご一緒した、しょごちゃんこと木越省吾さんのやってるもの。お昼を一緒に食べて、走って帰る。調布からなので9キロくらい。その間に「そうか、自主性がたりなかったな、こうすりゃいいんだ!」とか「思いつきハイ」になった。無理にでも、全開で笑うのは、すごくほぐれる。帰ってから、まちライブラリーの書面をスキャンしたり、少しだけ進む。が、主に「思いつきハイ」で終わっちゃった。でもまあ、少しすすんだからいい。
瀬戸嶋先生の方は、ヨガの本田信英さんが竹内敏晴さんの本をいい、と言っていたので読んで、そのワークショップの描写などにわーって思って、その後引き継いでやっておられるかたはいないかな、と検索して見つけたもの。(瀬戸嶋先生は、竹内敏晴さんと野口三千三さんの両方から教えを受けた方です。)
手拭いを両手でつまんで垂らす。下を私が両手でつまんで、持ち上げる、瀬戸嶋さんが離す。と、するするって手拭いが垂れ下がる。そんなふうに腰というか、股関節をちょっと後ろに引くと自動的に上体がするするって下がる。膝をピンとならんようにする、そして、手拭いを見てたんで、二次元的な動きのイメージになったけど、もっと袋の中のうごめきを感じるのがよい。(体は水の入った革袋のようなもの、と、野口先生はたとえていたそうだ。私も読んだことがあるな。)わずかな動きを感じるのが妙にいい。小さい声がちゃんと届く、というのと同じ雰囲気。あと、座布団を後ろにかませて、膝先ふくらはぎが着地して座るとより安定することを教えてもらった。
声は、らららら〜〜〜と、らで始めるとつかえないで相手に行く。そのまま、あ〜と続けてさらに、頬骨の下を両手で上に押し上げる(口角があがる)と、あらふしぎ、さらに胸から、ろ〜〜〜って出る。おお。どうなってるかなと胸のあたりを感じようとすると、とたんに喉にがらがらひっかかる、つまりがでる。先生から「相手に向かって出して!」と言われて、あ、いけないいけない、と意識を変えると、またちゃんと出る。面白い。どうなってるか、観察しようとすると、意識が自分に向かってしまって、相手に声が届かなくなる。
面白かった!(大声じゃなく、届くように話そう、と、思った。)
近頃、個展がせまり(7月5日から)、プレッシャー。「アーティスト」なんだから、なんか表現しないとね、っていうプレッシャー。ああ、名前に縛られる。これ、よくない。なんにもつくんなくったって、僕は僕で生きてる。作品化にならなくても、生きてること自体がそれでいい。(アーティストってちょっと得意だった(笑)けど、また「いや」になるかもね。(ブリコスターってどうかな。作んなくってもいい肩書きがいいなあ。ブリコスターをやまとことばで言えないかな?って、意味不明なたわごと。))
そうは言っても、なんかは作ってしまうのだが、それが「作品」という形の結晶でなければ、とりあえず、ならない、ということが、苦しい。だけど、その苦しさを手放したら、、、っていう不安もある。そしてその不安の中から楽しさやら興奮が生まれるのもまた事実。だからしがみついてる。
そうして、ここらへんをヒントに作品を作るのだ。
というか、そこいらへんに散らばってるまとまんないものやことが、なんかを投げ込まれたことによって急に結晶化する。耳をすませて、待つだけ。人を待つ。(ビニールの中に入った金属板を、ペコッとさせると、ぱぁーっと急に結晶になるカイロがあったな、確か。逆に冷えるんだっけ?)
やっぱり「結晶」が好きなんだ。美しい整合。それなしでも生きてはいられると思うけど、楽しさは半減するような気がする。
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