私はね、ヒッポって本当に素晴らしいと思ってるんだ。
なんでかっていうと、人間は言葉で伝える受け取るというやりとりするでしょう。
その根元というのか、本質というのか、を、体験、体感できるところだと思うから。
言葉は、書かれた言葉、をまず思うかもしれない。本を読む、勉強をする、インターネットで読み取る、ということが言葉を一番簡単に意識できることだからね。
でも、もともとは文字を持たない、音の連なりからなる歌のようなものだよね。(言葉の始まりを、鳥の歌で解明しようとしている人もいるくらい。)
文字から勉強すると、言葉は「意味」だと思ってしまう。
だけど、音から入っていくと、それは音楽を聴くような、もっと体感的なものだよ。おかあさんの優しい声とか、恋人の大好きな声音とか。
そして本当は音だけでなく、実際のしゃべりあう時には、もっとすごく多くのものがやってくるし、反応を返してもいる。そういう相互関係なんだ。言葉のやりとりというのは。こちらが心を開く、というと抽象的だな、こちらが、本当に面白いと思って、話したい、つまり伝えたい気満々で、そういう気持ちを出していくと、相手もそれに合わせて聴く力をアップして対応してくれたり、逆に引かれたり、する。だから、赤ちゃんの言葉にならない音をお母さんはしっかりと抱きとめて音を返してあげてることになる。人間の言葉はやっぱりここから始まってるんだ。この相互関係があるからことばははたらく。(相手が聞く気がないと、こちらからもことばが出ない。。。ほんとに。出たとしても、受けてもらえず、空中で消える。。。。多言語に慣れている人やところに行くと、何か言ってみた時に聞き取る力がすごい。音がちがっていても「多分こういうこと?このことを言ってるのかな?」と当ててくれる。ところがそうでないところだとちょっと音がちがっていただけで全く通じない。言ってみたこちらからすると「ああ、自分の言葉はまだまだで、ちっとも通じないや」という感覚にもなるのだが、ちょっと待った。言葉は私だけで成り立つものではない。相手の受け取る力にも大きく依拠してる。だから相手の受け取る幅広さはすごく重要な、伝わる伝わらないにかかわる要素なんだ。お母さんは、赤ちゃんにとってものすごくなんでも受け取ってもらえる存在で、だからこそ、子どもの言葉は簡単に育っていくんだ。)
多分、意味を背負いすぎた、現在のことばで見えなくなりがちな、本質にある、人間の伝える受け取るという生身のやりとりを、再発見するために、ぼくらはヒッポしてるんだと思う。だから、意味をわからないことばの国にでかけていって、それを試す。それを、って何を?
意味を伝える以前の、赤ちゃん状態に、いやおうなく置かれる、ということを。わからないけど、大丈夫、っていうことを。
意味がわからないから、意味にとらわれない。だから全部をなんとかして受け取ろうとするし、伝えようとする。
いろんな状況がある。近頃、ぼくは英語を教えてもらうようになった。それは「赤ちゃん段階」をだいぶ過ぎたから「学校」へ行ってもいいかな、という感じ(作品説明をしたいのだ)。中国語は、音が随分聞こえるようになってきた。ちょっと短い文が言える、わりと自然に。広東語。とっかかりがちょっとある。フランス語、なんかすごくよく聞こえる。切れ切れに聞こえて来る知ってることばにも助けられてかなり、わかる。ロシア語、音が親しい感じ。わかりそうなんだけどな〜って思う。
そういうそれぞれの段階で、いろいろと自分の言いたいことが、違う風に言えるのがとても嬉しい。なんか、英語は苦しいけど、細かいことが少し言えるのが日本語で言うより断然うれしい。(中学生がやたらに英語で言ってみたくなる感じかな?)なんかね、そういうふうにいろんなふうに自分のことがさまざまな段階、さまざまなニュアンス(言葉によって本当に、このことを「どう」いうかが違うのを徐々に感じるようになってきた。)で言おうとできるのが楽しい。
言葉なんか要らない。その言い方にも正しい面がある。
印刷された丸に「気」を込めるとか、電話で気を送るとか、なんか気功の人がそういうことをやったりするよね。
スピリチュアルの人たちとか。
ぼくは近頃そういう系でありつつ科学の人でもあるとか、いろいろフュージョンな人たちと喋ったり会ったりする機会が増えた。
ぼくはとても影響を受けやすい。で、波動とか気とか、なんかそういうものはやっぱりあるんだな、という感覚になってる。
それは、形じゃない。(たとえば、絵とか彫刻の、本当の、いいわるい?、いや、好き嫌い?は、形とか色じゃない、とも極論したくなる。共振するかどうか、なんだ。本質は。
もちろん、「意味」はとても支配する影響力が強いから、その分野で社会的に地位のある人が上手に「いい」と言ったら、本質的に共振してるか否かにかかわらず多くの共振が起きる。まあロックスターとかが、その音でみんなをとりこにする仕組みはそれで説明できてないような気がするけど。)
どうしてそう思うか、の傍証というか、ぼくが思うその例は、本当にいろいろあるけど(っていうか人生全部がそういう偶然のような必然のような流れの中にある。。。だから極論すると細かい全てに至るまでが「えっ?偶然⁉︎いやいや。。。。」って楽しめることなんだ。こんなタイミングでこれが起こるってどういうこと⁈って。)
ぼくの本のあとがきの一文を読んで、この人に習いに行こうとメールを書いた中国のエミリーとか、
書店で、この本が光って浮き上がって見えて、長文の手紙をくれた、仙台のまどかさんとか、
こういう現象って、私が作ってる時にそこに入ってしまった「なにか」に対しての、共振だと思う。
ぼくが「いいな!」って思ってるものを、素直に出したところになにかがあって、それに「いいな!」って共振が起こって、ぼくらは出会うということなんだろうな、と思う。この時に、ちらっ、と「いいな」を感じたとしても、それに応えて「いいな」をし始めなければ、ぼくらは出会わない。そう思う。そして、ぼくの出会いも、今度はこちらが応える側になって、ヒッポに会ったり、えにし先生に会ったり、田原さんに会ったり、もう最近は本当にいろんな人に会って、
そして、全部が面白い。なぜ?
だって、みんな違うから。ぼくが素直に自分を出すと、相手も素直に「いいな」とくる場合もあるし、そりゃあ違和感とくる場合もある。違和感の場合、ぼく自身の方の「ちがい」にも気づくことになる。(うらみつらみをぶちまけたこのブログ、ね。)「ちがい」は関係のことで、個体のことじゃない。自分一人で居ると、自分の「あたりまえ」はそのまま自分の常識で、それがどのくらい普通なのか、特異なのか、それを知る手段がない。ひとたび、外に露出してみて、相手の反応があると、ええっ!この人こう考えてたんだ!という発見。とともに対する自分はこう考えてたか!と自分を知ることになる。
話がずれたね。そう波動だか粒子だかわからないけど、「なにか」目に見えないものが、伝わってる、と感じるわけだ。それが量子力学以後の科学では、測定できそうな感じになってるらしいじゃあないですか。
まあ、ぼくはそれを測定する、できる、っていうことに別にそんなに興味はないけど。(数値化するとどっちの方がどれだけすごい、って言えるけど、そもそもそのためには「ある局面」というのを設定しなくちゃならないくて、それをこまかくして測ったのちに総合していったとしても「やっぱなんとなくこれだな」とか「これっ!!!」という感覚にはならないから。(でも「ある」っていうことが実証されたらなんか大手を振れる感じはあるけどね。)
そして、ヒッポは行く方としては非日常のホームステイで相手の日常に闖入?させてもらって、赤ちゃんにさせてもらう、という大胆不敵なトレーニングなんだ。(そしてカメルーンやトーゴでは、誰かが家に居るって当たり前(家族の範囲も広々してる。。。)だから「闖入」になってない。。。)
だけど、それは自分の家庭ではなかなか難しい。あまりに慣れている日常だからなんだろう。違和感や共感はしょっちゅう感じてるにもかかわらず。
日常の中で、ぼくは相手の反応に、いやだな、まただ、どうしていつもこうなんだろう、とすごく思っている。
違っているから面白い、とは思わない。なんでだ。
これを変えるためには、多分、なんとなく、勘だけど、別の人を入れる。ステイを受け入れる、あるいは自分たちのしゃべりを人前でやる、などが必要だね。きっと。中だけでやりとりして変わらないのを、ぼく一人がなんとかしようとしても難しい。苦しい。
だって、自分がすごく楽しんでいることすら、そんなに家族に伝えられてないんだ。
作品を作るのが、どんなに楽しいか、とか、自分の教室やヒッポやオンラインのミーティングで、どんなに刺激を受けて、それでたくさんの言葉を吐き出して、または、仕組みのイメージが浮かんだり、次の授業は、計らないでできるやりかたを考えてみよう!とかもう、わくわくすることばかり。なのに、それをあまりしゃべれない。なぜだ。
いやいや、なぜ、をここで追求するより、
便秘が出やすくなるような、動きをしよう。考えないで、イメージだけで。(そのためにこの文を書くんだけど、いつも長文になる。まとまんない。妻に、もっと短くしないと誰もちゃんと読まないよ、と言われる。。。。)
意味がわかるだけの言葉は、ものすごく文明を高度化した。
結果、今の世の中。これは、意味の言葉が未発達の頃よりも、幸せだろうか。それは知り得ない。幸せな人は幸せだろうし、そうじゃない人はそうじゃないだろう。
だけど、なんか、あの、赤ちゃんの充足(と、どうしても思える)に、あこがれるのは、許されることだろ?
そんなことに気づくのも、高度に意味化、文明化した現代に、一見単言語と見える日本社会に生まれたからこその、ヒッポを始めた榊原さんの気づきだったわけでしょう?例えば榊原さんに気づきをくれたルクセンブルクの人たちが、あたりまえだと思って気づかなかった「多言語」な状態を実験する、というアイデアは、日本人ならではでしょ。すべてを受け入れてみようとする、その態度は、日本だよ。(これは、この本から。「なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?」)
そしてぼくらのような者たちが、ちょっとだけ、えいっ!って思えばアフリカにも行けてしまう。そして、インターネットで関係を作ってそれを続けてくことも簡単。
だめだからこそ気づくことがある。なんで英語ができるようにならないんだろう、っていうところから。(わざと学校をつまらなくして。。。子供達が嫌がるようにして、、、、っていう陰謀説もあながち完全にうそ、とも言えない感じすらある。(骨抜きにして扱いやすく。。。)本来は「生きる」のを目的としてるでしょ、いきものは。人間の場合、学ぶは生きる、なんだから、きっと。)
ぼくは、見つけるのが好き。気づくのが好き。楽しい。これってこうも見えるよね。こうも考えられるよね、って知るのがうれしい。
正解は一個じゃないって思うとすごく気が楽になる。決めつけられるのがいつもいやだった。順番にならべられて、自分は序列の下の方になるのはいやだ。でも一番にはなれない。だってそのものさしの上には上がいるものだからね。「上の方」じゃ、や、なのね。おなじようなのの中の少しまし、なんて最悪。でも、いらいらすることなんてない。ほんとは。だって自分はどうやったって自分だし、比較不能のものなのだから、自分が、いい、と思う方向に進化するだけしかない。
でも、そう思わない多くの人がいるよ。それをぼくは受け入れられるのかな?多様なものとして。否定しないで。
違うと思う、といいながら、そのありかたを否定しない。いや拒否しない、か。いやだけど、いることを拒否しない、か。
共存って、夢のような理想なイメージじゃなく、そんなようなもんかもね。田原さんの言ってた、マレーシア。別に楽しくないし、理想な感じもないけど、
とりあえず、殺しあったりしないで同居してるその感じ。まあ、自分の家族もそんなんで幸せなのかも。うん。まずその幸せを認めていこう!
ちがってる幸せさ。うん。一体にならない、幸せさ。
ほんとうに。一緒に居てくれてるだけで、幸せではないか。
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