前に書いた道具の動画、スタートしました。
第一回目は鉛筆(芯ホルダー)。ファーバーカステルTK9500(上の写真)に3Hの芯を入れる、ってことについての動画です。
多分30年以上使ってる古い色のバージョン(上)はノックする部分をアルミ管でなおして使い続けてます。金文字は剥げ落ち。現行モデル(下)は、ずいぶん色が変わりましたね。昔のトンボ鉛筆と三菱鉛筆の色を思い出させるのが面白い、と思っています。
動画は、週1、月曜の夜にアップしていきます。
そして、来年5月12日(月)に動画講座を始めることにつなげていきます。どんな内容にするか、まだまだ全然未定です。
コロナのときに動画作って気づいたのは、撮る角度変えたり拡大したりできるので、リアル対面で見せきれないような痒いところに手が届く、ということ。それで、自分が一番説明したい「道具ということ」に焦点をあてて、まず半年20数回作ってみようと思います。
一回目の「鉛筆(芯ホルダー)」作っての発見は、自分にとっての鉛筆の最大の用途は点を打つこと、というのと、点は真ん中を見出し易い、ということでした。気づいてかなり嬉しかったです。ここは今まであまり意識化されてなかったことでした。
このように、これからひとつひとつ道具について再考し、自分の腑に落とすことになるだろうと、感じました。
2005年頃、初めての著書『手で作る本』を作っている時のことを思い出しました。全力で「わかりやすさ」を目指しました。それはシンプルに「材料とサイズを明らかにし、手順を可能な誌面の限り詳しく説明する」ということでした。
その後、何年もかけて感じていったのは「わかりやすい」とはまあ、そういうものでもないんだな、ということでしたが。
今回始めた試みも、本を書いた時と同じで、全力で「わかりやすさ」を目指します。自分が気持ちが良く動けて、理路が通っている道具やその使い方を、動画にします。ともかく、まずは、自分本位ですね(著書を作った時と同じで、結果としては、わかりやすくはならないような気がしています)。
第二回は、ステンレス直尺についてをアップします。そのあとのチョイスや順序、まだまだこれからです。いつも泥縄、自転車操業です。
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2024年11月 1日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
一昨日から、3日連続の実習授業で尾道市立大に来ています。それでブログのことをすっかり忘れました。
木曜夜アップ、今回は、完全遅刻。
というわけで、最終日の実習前にブログを書いています。
1日目はは2年生への実習で、3時限使って、角背のハードカバーを作るもの。
事前に、本文紙、表紙芯用のボール紙、表紙用紙、などなどを学生に渡して、動画を見て、仕上げ断ちしておいてもらいました。
授業では「組み立てるだけ」ということを目論んだわけです。
が、私がサイズを少し間違えていたことが、実習始まったところで判明。ボール紙などを3ミリ小さく切り揃える必要が生じてしまいました。
そのせいもあり授業時間が15分ほど伸びてしまいました。毎回時間が伸びがちなので、今年こそは!と思っていたのですが、残念。
でも、実のところ、こういった製本を仕上げてもらう実習では、その時の学生たちの技量(?)次第であり、完全にはコントロールはできないんです。最近、そう思い切った結果、あとは動画見てやってね、とできるように動画を作っています。そういう時代が来てうれしいです。
無責任とも言えるし、なんといっても自分の負担が増えてしまって、普通に考えるとよいことではないかもしれないのですが、でもやっぱりこれもあり、と納得しています。
動画で自分の技術をとりあえず全て説明してみたい、という目標もあるので。
ずいぶん前に、カルチャーセンターで教えたことがあったのですが、そこでは作品を仕上げて持ち帰っていただく、というのが必須です。できあがらないという恐怖を避けようとして準備をすればするほど自分の負担が増え、その分受講者のみなさんの体験が薄くなる、という悪循環を感じて、早々にやめました。私に向いてなかったです。
その点、学生に教えるのは観点が違います。経験の無い大学生への実習の場合は、糊を塗ると紙が伸びちゃうとか、それを貼ったらみるみる反ってしまうとか、そういうのを体験してもらえれば十分で、ちゃんときれいにできる、ということは二の次と最近はますます思うようになりました。
さて、2日目、3日目は、院生への実習。
内容は、
学生のリクエストで「合紙絵本」。自分がやらせてみたくて「本かがりの丸背ハードカバー」。
どちらも初のこころみです。
「合紙絵本」は専用のマシンを持っている製本会社にお願いしないと普通できないです。また「本かがり丸背ハードカバー」はいわゆる本らしい本。手作りするには、かがり台とかプレスとか断裁機などなど、専用の道具(機械)が必要です。それらを使わずに、身近にあるものを道具化してなんとか可能にするというのが、私の昔からの趣味ですね(下はボール紙を使った、かがり枠)。
さて、どこまで作れるかな?
それはそうと、尾道に年1で来だしてから、多分10年以上経ちます。
実習の空き時間にいろんなところに行ったり、どこに泊まるのかも楽しみです。
一昨年からは、Airbnbでみつけた、いろは荘が気に入っています。昔の学生の下宿をリノベートした宿で昭和気分。
今回は、そこと駅から見上げたいちばん高いところにある、ビューホテルセイザンにしました。ここは値段とエリアで決めたのですが、窓からの眺めがとても良く、驚きです。
窓外の絶壁、真下の林で、朝からヒヨドリがたくさん鳴いて、東京ではうるさい鳴き声が、さわやかな朝の鳥の鳴き交わしに思えるのが面白く、口元がほころんでしまいました。飛び交う鳥の背中を眺める、というのがなかなかない体験でした。
千光寺ロープウェイにも初乗りし、尾道市立美術館で小林和作展を見て、ゆっくりしました。そして、今これを書いているのは、みはらし亭というやはり古い家屋を利用したカフェ。今朝から雨になったんですが、登り降りするロープウェイと岡山方面に向かう線路の列車が見えて、すごくゆったりできます。
美術館での尾道紹介に「ジオラマ」ということばが使われていたのですが、まさにそんな感じ。
この地の風景に惚れ込んだ、小林和作さんの絵も非常に美しく、風景に嵌る、数日になりました。
明日はちょうど旧小林和作邸の公開もある事を知ったので、それを見て帰京しようと思います。
2024年10月24日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
2024年10月17日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
2024年10月10日|ブログ|個別ページ
ジョギングが趣味です。
毎朝のゆっくり走り(歩くより遅く30分〜1時間走る)と、
(自転車、車、電車などを使う)買い物など目的地への移動をなるべく走ってする、
という趣味です。
特に楽しみなのが、まあ、年に数回なのだが、地方の大学の授業前に、駅や宿から走って行く、ということ。わざわざ早い時間の電車に乗ったりして、ゆったり走って通勤。
今週、先週は宇都宮の大学。朝、川沿いの斜面にクズが繁ってるな、と思っていたらなんか別の花を発見。帰りに写真を撮りつつ観察。
ガガイモ科?ってなんとなく思ったが、アレチウリというウリ科の植物でした。種がすごくかっこいい。クズの方は花がほとんど終了、こちらも種ができてました。
手前のくるくる〜ってなってるのは、いかにもウリ科。すごく混じって繁っていました。まあ、こういうのを見つけたりするのが楽しいのです。
さて、やめたり再開したりあるけど、高校生くらいから、ずっと続けてるジョギング。随分前には、ワラーチを自作してワラーチマラソンっていうのに出たりしたけど、マラソンをやるようにはならず。2017年に足を傷めてからは、すごくゆるゆるとやっています。その時の痛みとか張りとかは今は無くなっているんですが、ここ最近は、常に大腿三頭筋(腿の前っかわ)が筋肉痛、そして膝痛。これ問題です。
スクワットでもないのに、ここが痛くなるのは、相当足の使い方がおかしいに違いない、と昔習った(そして挫折中の)構造動作トレーニングとかフィジカルメソッドフォービーイングとかを思い出すようになってきました。コロナ期は、頭が混乱して、身体のことなんかまるで注意が行かなかったな、と、やっと感じるようになってきた、ということです。
最近は、ゆっくり走ってると、頭の中にいろんなことがでてきます。
そんな中に、製本でヘラを使ってる時のことがありました。道具って体の延長というか、ヘラ先で何をしたいのかがわかってて、そう動いている。
ところが、その作業を見せても、意外に相手にはそれがわからないことが多いです。そんな時、ヘラ先にしたいことが伝わっていないなあ、というのが、こちらには手に取るように見えます。
このことと、今の自分のダメなジョギングが似ているような気がします。ヘラ先という体の外じゃなくて、体の中の筋肉の起点とか関節の起点にもイメージが持てればいいのでは?と漠然と思いました。ヘラの先に触覚は無いし、体の中にも触覚は無い(のどを過ぎた冷たい水は、忽然と体の中に消えてしまう!)けれども、ヘラでできたことは、体の中でもできると思うのです。
さらに思い出したのが、花ぎれ編みのこと。
製本を学びだして、動きそのものが難しかったのがこの作業。
右手は向こうで、左手は手前で糸をひっぱって、きれいに三段に糸の交差を作るのですが、これがうまくできず。両手がものすごい力で前後にひっぱりっこしてしまう(アクセル踏みながらブレーキもかけるみたい)ので、2時間くらい練習すると筋肉疲労でご飯の時お箸をポロッと落としてしまう、というふうになってました。いつの間にか、動画のようにちゃんとできるようになったんですが。
この時のことを説明するのにいつも「力を抜けばいいのにそれができず」と書いてきたのですが、よく考えると、力が抜けたのは結果であって、指のどこをどう使えばいいかを体が理解したからだな、と考え直しました。
ジョギング時のももの筋肉痛も、上記の製本体験のように、イメージとそれを理解する身体で誤解を解いていこうと思います。
2024年10月 2日|ブログ|個別ページ| コメント(0)
前の日曜に、OTA BOOK LAB 作品展 を見に行きました。
太田泰友さんは、ドイツでブックアートを学んだブックアーティスト。
その太田さんが、この展示の案内はがきで書いていることば。
〈 ブックアートの大いなる可能性を潜在的に持ちながらも、それがなかなか形にならないこの日本で、なんとか一歩目を踏み出そうと立ち上がった2018年10月。新たな本づくりの可能性を追求する場OTA BOOK LABが発足してから、もうすぐ6年になる。 〉
透明なプラスチック手袋をまず渡されて、ほとんどの作品を持ったり、めくったりして鑑賞することができる。
これがすごくピッタリだった(ほんの少しだけ手袋フェチ傾向の私です)。
布の手袋などで、ああ、本当は直に触りたいなということを思う場合もあるのだが、今回、全くそうは思わず。
ガラスのページがずっしり重いのや、OPPフィルム?で全何百ページができている作品など、プラスティック手袋は最適でした。
寒冷紗のページのもの、布に刺繍をしたページのもの、なども快適にめくらせていただきました。
本って触って読むものなのだよな、と改めて思いました。
触ったりめくったりが、テキストとどう関係するか、とか、普通の本ならば気に留めないところに、フォーカスして楽しませるのも、ブックアート、ですね。
最重要なのは、どういうコンセプトでこれを作ったか。作者の書いた説明と、会場のスタッフの説明で、それを知るといよいよその本がブックアートになっていきます。
どれも美しかったです。
そして、私は、いろんな雑念がでました。
アートが「仕事」あるいは「商売」として成立するのって、どういうふうな道筋なのだろう。
アーティストと自称しつつ所詮その道筋のわかっていない私だなぁ、と思ったり、だからブックアーティストじゃあなくて製本アーティストって(なんだかまがいものっぽい名前を)自称してんだよな、と妄想したり。
帰宅したあと、自分が昔作ったものなどを思い浮かべたりしていました。
今、作品的なものは何も作っていないけれど、最近、久々に、とてもキレイなものが作りたいなぁ、と、ちらりと思うことがありました。この展示を見るより少し前だと思うけれど。
ここちよく触ることができるために、キレイに作らなければならない、という要素が「本」にはあります。
私、製本教えていて、キレイに、汚さないで、きっちり作る、ということこそを特に大事にしているな、と改めて思いました。
私のしたいことって、どうしたら「キレイ」か、ということだけかも。
特に本質は無いような気がする。
「きっちり」とか「ちゃんと」が、がんばらないで合理的に解決されるのが「キレイ」かな。
結局、そういう、ごく、感覚的なとこに、こころが痺れてるだけの私。
急に別な話を繋ぐのですが、家の前のヒガンバナののびてきた蕾が二日に渡って、何者かによって、ほぼ全部(19本中18本、的に)スパッと切り落とされていました。
見た瞬間にどきっとし、それから胸が嫌な感じになりました。
無惨に散らばる蕾を拾い集めて、活ければ咲くか?と思いつき、水切りして活けて数日。
このように咲きました。
キレイを作りたい、死んだものを活ける、みたいなことを、ちょっと思いました。
先日の連休、ひさびさのテント泊の山行をしました。
北海道のどまんなか大雪山系の旭岳。
大学で山をやっていた娘と、それを育てた山好きの妻に連れて行ってもらった私と息子という体。息子はさておき、自分は学生の時はワンダーフォーゲル部だったのに、頭はほぼからっぽな状態で歩いて、こんなふうに山に行くのは非常によろしくない、と反省でした。
が、まあ、良かったところといえば、なんの心配もせず、ただ歩いて、見て、感じる、というのに集中できたことでしょうか。
ロープウェイ駅で降りると、0.2度。それはわかっていたので驚きはしなかったが、30度の東京から飛行機でピュっ!とくると、ホテルで一夜過ごした後でも「どこでもドア」感がとても強かったです。
歩き出すと、左手の地獄谷ではいくつも噴気があがっていて、ワクワク。
しかし、すぐに風が強くなり、ひさびさのこの環境にかなり意欲を削がれました。寒い時の風は本当にこたえます。ロープや岩に樹氷というか霧氷というか、が数センチも伸びていて、うわぁ、大丈夫かな、という感じ(10年くらい前、秋田駒で冷たい強風で、すぐに下山したのを思い出しました)。
しばらく行くと、尾根と谷の微妙な角度の変化で風の影に入ったのか、いい感じ。ほっとしました。
ここ大雪山系の最新の噴火は5~600年前。ということは室町時代頃?
御鉢平というこの広々したカルデラでは1958年と1961年に火山ガスによる死亡事故があったそうです。地図上の「有毒温泉」という地名は、それによって付いた名なのかな、と思いました。検索して驚いたのが、硫化水素は薄い時はたまごの匂いがするが、濃くなると無臭、とのこと。だから気づかず死に至ったのかな、と思いました。
土の色がずいぶんバリエーションがあって、面白かった。それぞれの由来が地球のどの成分がどんなふうになってこうなったのかな、と思うとすごく味わい深い。火山ってまさに地球が動いてるのが実感できる場所だな、と思い、感動しました。
そして、植生の変化も、高低差だけでなく、土との相性もあるんでしょう。さまざまな条件でこの景色できていて、それを実に美しいと感じる感覚は、自分も地球の子だからだろうな、なーんていうことばを思いついて、嬉しくなっていました。日本列島に生きててよかったな、と思う。
高山帯のナナカマドやイネ科の草紅葉も良かったが、
こういうクロマメノキ(すごい量の実もついてます)とか、
ウラシマツツジ(このはっぱ)などが特に美しかった。赤い実はコケモモ。
シラタマノキはルートビアみたいな香りと甘味があっていい感じなのだが、クロマメノキより少し標高が低いところに生えてる。あるいは土の違いなのかも知れない。しっかり緑の葉をしているが、これもこれから紅葉するのだろうか。
下山後は、旭岳温泉に泊まりました。
やはり山好きの義理の兄から、泉質がとてもよい、と、薦められていた湧駒荘。幾つもの源泉からの湯があって、高過ぎないの湯温で、何時間でも入っていられる理想の温泉!
非常に良かったです。
効能には興味があまり無いですが、含有成分がいろいろというところはとても魅かれます。正苦味泉はマグネシウムと硫化イオン、芒硝泉はナトリウムと硫化イオンか、など、まだただ名を知っただけですけど、体で地球を感じてる感が盛り上がって嬉しい。
地球ってどこを見ても面白いけれど、むき出しでわかりやすい場所だと、特に感動しますね。
そして、知識を深めていくと、より深く味わえるようになると素直に思いました(まずは本を読むということですね)。
この秋の、ある大学の製本実習の全道具(材料でなく、道具だけ)。
こうして並べると、種類が多いのか少ないのか、もはやわからなくなる。
これまでかなりちゃらんぽらんに、大学の集中実習などをやってきた(と言わざるを得ない。。。)
というのも、刷毛やヘラもあるものでいいよ、なければスプーンでも使えるよ、という姿勢でした。
特別なものを使わなくてもなんとか作れる、と言いたかった。
がしかし、手製本という特殊な作業を教えるには、普通は、プレスとか断裁機とかの大道具を揃えなければならない。
それをしないで、上のような考えでやっちゃってきた(工業じゃなくて手芸にしたかったのかもしれない)。
「大学」しかも「美術大学」っていう専門性の強いところで、どうしてそんなトチ狂った態度に出るのか、本当に私は困ったものです。
まあ、それが、私らしい態度なのですけど。
そして、この「私らしさ」の淵源は?と思うと
東急ハンズがオープンしたのが、美大に入学した年だった(か、ともかくそのあたり)っていうこと。
「DIY」というような環境で、その後を育ってしまって、こういう作り方が生まれてしまった。DIY、Do it yourself、って、さまざまな便利道具を与えられて、なんだか自分で作ったような気になる、という時代だったような気がします。
もろにその流れの中を生きてきてしまいましたね。
そういう「DIY」的道具で、伝統的な手工業(あるいは工芸)の手製本に相対するとどうなるか。
その一つの結論ではあると思います、写真のような道具類。
今年の眼目は、先週も書いた、木の棒と粘着テープ類。
そして、私が求めてるのはなにより「快適で正確な作業」。
その気持ちにストレスを与えないように、最初に書いた「なんでもつかえるよ」を改めて、道具類をかなり一生懸命見直しました。
両面テープなら
ニチバンナイスタック一般タイプ10ミリ幅
マステなら
3Mのオレンジ色のやつ(建築塗装用)12ミリ幅
を、推し、としてやります。
ずっと悩ましかった「刷毛」も、ダイソーの平ハケ3センチ幅ナイロン、というのにたどり着いたので、糊ボンド使いを指導するときの不快さからはかなり脱出できるのではと期待しています。
などなど。
また、自分でやった感がでる、竹ヘラ削りはやります。
やった感出る、なんて卑下して書きましたが、道具を自分でコントロールする基本を感じることができるはず、と思ってます。うまく削れていたら、気持ちよく折ったり裂いたりできるし、そうでなければ全然うまくいかないですから。